<ヒートテックの大ヒット>
「ユニクロ」の誕生は1984年。柳井氏が、家業である山口県の小さなメンズショップの社長に就いた年に、1号店を出店した。企画、デザインから製造(中国で委託生産)・販売までを一貫して行なうSPA(製造小売)という、かつての小売業には見られなかった革新的手法を取り入れた。
大化けするのは98年、東京・ユニクロ原宿店のオープンとフリースの大ヒット。これで柳井氏は、小売業界に革命をもたらした「時の人」となった。その後はさっぱり。フリースブームの反動で業績は大きく下揺れ、株価は急降下した。
柳井氏は『一勝九敗』(新潮社)というタイトルの本を出している。失敗に挫けず、何度でも挑戦することが成功の秘訣と説く。題名の通り失敗の連続。フリースの一勝だけで終わると見なされた。それでも、柳井氏は“独り勝ち”にこだわった。情報化社会では、トップ企業しか創業者利得が入らないからだ。
07年と08年に、発熱保温肌着「ヒートテック」が女性の間で爆発的に売れた。08年秋冬物だけで約2,800万枚を完売。空前のフリースブームに沸いた2000年の秋冬、ユニクロが販売したフリースは約2,600万枚。ヒートテックはフリースを抜いたのだ。
消費不振で百貨店や総合スーパーなどの衣料品販売が極度に落ち込むなか、ユニクロだけが“独り勝ち”したのは、03年から東レと共同開発してきたヒートテックの大ヒットにあった。ユニクロの10月の国内既存店売上高は、前年同月比35.7%増と、驚異的な高い伸び率を記録、株価は暴騰。時価総額は4カ月で4,000億円増え、総合小売りトップのセブン&アイを上回ったのだ。
<「世界のユニクロ」になる日>
ユニクロの快走を支えているのは、日本の働く女性の自信だという説がある。彼女たちは、かつてのように高級ブランド品に先を争って殺到することはない。彼女たちは欲しいと思うものを欲しい時に、格安な価格でいち早く提供してくれる店で買う。こういう形態の店を「ファーストファッション」と呼ぶ。気軽でおしゃれな店、という意味だ。
大盛況のファーストファッションの欧米御三家は、スウェーデンのH&M、スペインのZARA、米国のFOREVER21といわれている。ユニクロはSPAの雄で、ファーストファッション店ではないが、その存在の大きさから、H&M、ZARA(会社名はInditex)の株価、時価総額と対比されることが多い。
11月9日時点の時価総額。ユニクロのファーストR(1兆6,876億円)は、SPAの元祖、米GAP(1兆4,400億円)を超えた。次なる目標は、H&M(4兆5,500億円)、ZARA(3兆5,500億円)のファーストファッションの「2強」だ。
柳井氏は、新著『成功は一日で捨て去れ』(新潮社)のなかで、「H&M襲来は大歓迎」として、「我々もどんどん海外に進出していく」と挑戦状を叩きつける。日本のユニクロが「世界のユニクロ」になった時、株価3万円説が出ている。暗雲に覆われた09年の日本経済のなかで、ユニクロの快進撃が、唯一の明るいニュースだった。
【日下 淳】
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