桶狭間の戦いは、奇襲作戦である—というのが通説になっている。今川軍の主力が桶狭間(一説によると田楽狭間)で休止中に、太子ヶ根の丘陵へと迂回した信長軍が義元の本陣に斬り込み、見事、義元の首級を挙げた。信長はこのような、いちかばちかの奇襲作戦を生涯二度と行なわなかった。その後の信長の戦いぶりを見てみると、常に勝つ確率を最高に高める戦略、戦術を駆使している。その信長が、生涯で最初の大合戦に確率を無視したいわばいちかばちかの戦いを挑むだろうか、というのが私の素朴な疑問である。おそらく彼は桶狭間で勝つために万全の策を尽くしたに違いない。
信長は元来、情報人間である。情報量の差が戦いの死命を制するということをよく知っていた。桶狭間の勝利で最も最大の恩賞を得たのは、簗田政綱だったが、政綱は実際の戦闘には参加していない。信長軍の情報将校とでもいう地位にいたものと考えられるが、もっと端的に言えば、野武士の頭領で、恩賞には情報蒐集に参画した大勢の手下への分け前も含まれていたとみるべきであろう。
おそらく、進軍して来る今川本隊の情報は刻々と信長の耳に入っていたに違いない。太田牛一という信長の武将が著した「信長公記」は、本人が実際の戦闘に参加し、あるいは同僚などから直接聞いた話を基に書かれただけに史実に近いものと考えられる。その「信長公記」によると桶狭間の戦いの様相は通説とは全く異なったものとなっている。
同書の記述によれば、信長軍は善照寺砦から太子ヶ根へ迂回したのではなく、今川軍と正面からぶつかる中嶋砦へ進んだとある。そのとき部下達は、中嶋方面は深田で足場も悪く、見通しも良いので敵から丸見えだから止めた方がよいと進言している。しかし信長は構わずふりきって二千の軍を今川軍の正面に進めたのである。そのとき、にわかに強い雨風が吹き大木が吹き飛ばされた。その雨風が止むのを待って信長は突撃の下知を下した。
信長の指示は「懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし、分捕りをなすべからず、打ち捨てたるべし」という合理的なものであった。敵の首をとることを考えず、ただ切り捨てよ、軍(いくさ)に勝ちさえすれば戦場にいたものは末代までの高名にあずかる。ただひたすら戦えという意味である。
それでは信長の勝算はどこにあったのだろうか。第一は義元の配置を刻々と的確に把握していたことであろう。前軍を破れば意外に近いところに義元の本陣はあるということを信長は知っていた。
そのときすでに織田方の出城の丸根、鷲津の二砦は落ちており、今川軍はその戦闘部隊と本隊が合流して、鳴海城へ向かう予定になっていた。義元は必勝の体制を確信していた。この義元の油断と兵力の分散を引き出すためのおとりが丸根、鷲津だったのである。次の勝因は、今川軍を深田へ誘い込んだことである。旧暦の5月19日といえば、現在では6月、田は水を張り、大軍は一斉に動けない。一方地元の織田方は畔道を伝わって縦横に動き、機動性を失った義元軍に攻めかかった。
最後の決め手は鉄砲の使用である。鉄砲については「信長公記」にも「信長記」にも全く記録はないが、この時期は種子島に鉄砲が伝来してからすでに17年経っており、15才の時から熱心に鉄砲を稽古していた信長もすでに10年以上の経験を持っているわけで、鉄砲好きの信長としては鉄砲を実戦に使いたくて仕方がなかったに違いない。
「信長公記」には「黒煙立てて打懸かる」とあるが、雨のあとの水田で土煙が立つはずがない。おそらく一斉射撃による硝煙が立ち込めたのであろう。信長は母衣衆(ほろしゅう・親衛隊)の佐々成政(ささなりまさ)に鉄砲の二段うちの練習をさせていたという記録もあるので、このときこの射撃法を採用した可能性はきわめて強い。身動きのとれないところで、まさかと思った鉄砲を散々に打ち込まれた今川軍は算を乱して崩れ、義元の首級も意外にあっさりと挙げることができたのであろう。
とにかく「懸からば引け、引かば付け込め」という作戦が奇襲であるはずはない。信長はこの戦いの勝ちを十分に読み切っていたに違いない。この一戦こそは信長会心の勝利である。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
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