野口 孫子
新聞辞令 (2)
ある日、親会社の山水工業・古橋社長が中井を訪ねてきた。親会社とはいえ、年間売上高では子会社の山水建設が大幅に上回っていた。子会社である山水建設は山水工業の製品を建築資材として大口に購入しており、両者の間柄は親子の関係でなく、対等の関係になっていると言っても過言ではない。
親会社の社長が子会社の中井に会いに来ても、おかしなことではなかった。
「中井さん、次期社長に坂本専務を起用されるとか。坂本さんについて、うちの営業からはいい話は聞きませんなあ」
古橋は暗に坂本の社長起用に対し反対の姿勢を示して帰って行った。
対等とはいえ、山水建設の株式占有率22%の筆頭株主である。その意見を無下にはできない。
「いろいろ問題があっても、私の眼の黒いうちは悪いことはさせません」
中井は苦し紛れに、そう答えるのが精一杯だった。
社内からだけではなく、親会社からも坂本に対する懸念について指摘されたことに、大きなショックを受けていた。正直なところ、自分の会社の人事にまで、介入してほしくなかった。
中井はプライドも高く、“瞬間湯沸かし器”とあだ名が付くほどの短気であった。
他人からいろいろ指摘され、逆噴射しかねない状況に、中井は関係子会社の担当常務と工場担当専務、購買担当専務をそれぞれ呼び、坂本の黒い噂をめぐる事実関係について調査するよう命じた。
命令を受けた各部署は、次期社長になる可能性の高まった坂本の悪行を調査することに尻ごみした。警察権もないのに証拠を掴むことが不可能であることは、誰にでもわかることだった。
上司から「調べてくれ」との依頼に「はい」と答えるだけ。1週間経って「何もありません」と報告するしかなかった。敢えて、火中の栗を拾う馬鹿はいなかったのである。
そのような動きは、当然、坂本の耳にも入っていた。次期社長の有力候補に、この際、自分を売り込もうとする幹部から「坂本専務のこと、社長が調べてますよ」と報告されていた。坂本は「あいつら、犬みたいに俺を嗅ぎ回っているんや!」と取り巻きに話をしていた。
坂本はこのまま悪い噂が慢延すると、社長の内示がつぶされることになるのではないか、と危惧し始めた。
(つづく)