<日本一が行き詰まる>
福岡には、業界日本一にまで成長した企業が数多くある。流通、小売、飲食関係では、ロイヤル、カメラのドイ、ベスト電器、ユニードが有名だ。ユニードはスーパー日本一には到達できなかったのだが、大阪に進出した昭和45~46年頃にはダイエーと年商で肉薄した時期もあった(結局はダイエーに飲み干されるが――)。
これらの4社に共通しているのは、創業者の強力なリーダーシップで大躍進したことである。そして、一代で企業生命が断たれるに等しい状況になっていることも共通している(一族経営ができないという意味も含んでいる)。そのうちロイヤルの場合は、創業者江頭氏が福岡地所の榎本一彦氏に巧みに事業継承を託したので、一応、現在に至っている。
今渦中のベスト電器の場合は、創業者北田光男氏が昭和22年3月に設立した。会社経緯は複雑なのでそのあたりは省略するとして、昭和48年9月には福岡証券取引所に上場した。さらに同57年12月には東京証券取引所二部に上場、59年8月には東証一部に昇格を果たしている。同グループは、ピーク時には同社および子会社14社、関連会社2社で構成されていた。
業種的には、家電卸小売業、クレジット事業、サービス事業、その他(不動産業)を事業としている。そのうち家電小売業では、昭和57年から平成9年までの16年間、「家電の日本一」を誇っていた。同社は福岡では、「日本一のお手本」の存在であったのだ。
しかし、当初から、「この日本一に輝いたのも、たまたま業界に先駆けて全国展開をしたからだ」という冷ややかな見方をする業界通はたくさんいた。事実、『眠れる獅子が目を覚ます』という例えではないが、昭和の終わり頃からヤマダ電機、コジマ、ヨドバシカメラ、ビックカメラなどが、ロードサイド店や都心中心部の旗艦店へのオープンを続出し、激戦状態になったところで、ベスト電器は防戦一方に追い込まれた。そして、意外とあっけなくトップの座から引きずり降ろされた。不甲斐ないといえば、不甲斐ない。
このコーナーで再々、警告を発してきたはずだ。「激変時代には悠長なことをしていれば、2,000億、3,000億の企業でも一夜にして潰れることがある」と予告してきた。その具体的な一例が、ベスト電器であったことを読み取っていた読者は数多くいたはずである。もはや同社の選択の道は、ビックカメラの軍門に下るか、法的整理を申請するしかないであろう。
<北田創業者が災いの元>
創業者の功労を否定することはできない。だが、こんな脆い組織にした責任は、すべて北田氏が被る必要があるだろう。身内筋の方が喝破する。「北田さんが葆光(しげみつ)さんにすべて任せればよかったのだ」と。
たしかに光男氏は、昭和61年5月にかたちとしては長男・北田葆光氏に社長のポストを譲ってはいるが、自分は会長の席に居座った。そして、葆光社長には社長らしい権限を与えなかった。すべての決裁は光男会長に回されていたが、実務は有薗専務が執行していた。次回触れるが、この統治体制が社内風土をおかしくしたのである。
光男会長は、平成14年11月に亡くなる。亡くなる2年ほど前から、葆光社長はようやく社長らしい権限に裏付けられた仕事をできるようになったのである。ところが、この二代目社長も、会長の死からわずか1年後の平成15年12月に不慮の死を遂げる(「不慮の死」の意味を理解していただきたい)。
まさしく、光男氏の祟りがあったのではないか!!
(つづく)
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