<光男オーナーの意向に従うだけの社内風土>
創業者オーナーによくある悪いパターンの一つに、「息子は能力がないからバトンタッチできない」といって院政を敷くケースがある。2代目の葆光氏に能力があったかどうかはさておこう。それでも、社長に祀り上げて実権を与えないとなると、社内統治は異様になる(一応、ベスト電器は上場会社であるということをお忘れなく)。これでは葆光社長本人も腐るし、社員たちも社長を無視して、光男会長の方ばかりを向く。その業務遂行を、当時の有薗専務が仕切る。そうなれば、幹部たちは有薗専務の方に靡(なび)いてしまう。
そこで一段と悲劇が膨らむ。「やはり有薗専務は葆光社長より優秀だ」という『虚構』が定着した(この点に関してはあとで解説する)。有薗社長体制になって、隠されていた同社の虚弱体質が露呈し、業績悪化が一気に加速したという厳然たる事実。これは有薗氏が、「二番手としての執行官としては有能であったが、トップの器でなかった」ということを証明している。同社は「光男氏コケレバ皆コケル組織」になり下がっていたのだ。組織の全員が、光男氏の意向に従う風土が確立されたのである。
スーパー創業者が、死ぬまで誤りなく組織運営をすることも、たまにはある。だが残念ながら光男オーナーの場合、その晩年においては舵取り操作の不手際が目立ち始めた。社内の実情把握の立ち遅れが歴然としだしたのだ。管理の緩みが表面化してきたのである。幹部たちが、耄碌(もうろく)したオーナー経営を舐めだした。一部の幹部たちによる、公私混同した不正を諌める者がいなくなった(次号で詳細報告する)。
<3代目経営者選択に「悲劇の過ち」>
光男氏の晩年2年ぐらいになって、ようやく葆光氏は社長らしい仕事ができるようになった。そうなると、有薗専務周辺に群れをなしていた輩は、潮を引いたようにいなくなった。葆光社長周辺に屯(たむろ)し始めたのである(有薗専務は閑職に追いやられるかたちとなった)。右顧左眄する行動は、サラリーマンの習性であるから非難することでもあるまい。2代目社長としては悔しい思いをしたはずだ。「あまりにも遅すぎた!!」と叫びたかったのではないか。平成13年・14年において、『家電小売り戦争』におけるベスト電器の敗北は決定づけられていた。社長の本当の実権を握って初めて、同社の経営の実体を知った。すでに立て直しのチャンスを失っていたのである(その4で説明する)。ギブアップ。葆光社長はまさしく「憤死」を遂げたといえるであろう。
ここで北田家は、3代目経営者選択に「悲劇の過ち」を犯してしまった。故・葆光社長の一族は身内を後継者にしたかったのだが、御子息は幼い。無理である。そこで故人の姉の夫(義兄)にあたる有薗専務に、白羽の矢が立った。聞くとところによると本人は、平成16年2月期の決算を終えて故郷・鹿児島に帰る予定であったという。この決意を貫くべきであった。
有力仕入先のメーカーからも、「社長就任要請」の強い説得があった。律儀な有薗氏であるから、「無碍(むげ)に断ることができなかった」ことについては同情する。それでも先を見通せば、ベスト電器の行く手に立ち塞がる難関は充分に理解できていたはずである。そうでなければ、見識を疑われる。また、自分がトップの器でないことは自己認識されていたはずだ。有薗氏が平成16年1月に社長に就いて以降の5年間は「敗北の繰り返し」。そしてついには、幕引き役まで引き受けるはめとなった。
(つづく)
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