トップの座を滑り落ちたのに
ベスト電器は昭和57年から平成9年までの16年間、家電トップをキープしていた。ピーク年商4,000億円台に達したが、同業ライバル他社は勢い凄まじく1兆円企業も誕生した。平成9年を境にしてトップの座を明け渡したのにも拘わらず、社内はトップ意識に安住していた。ライバルの後塵を拝する事態になったのは、「傑出していた光男創業者の威光の衰え、年齢からくる指導力の大幅低下」ということである。当然、この時期から前述してきた組織の歪みが露呈してくる。
業界トップの座を明け渡した5年後に光男オーナーは亡くなる。二代目社長の葆光氏もあとを追うように1年後の15年12月に急逝する。ここで光男氏のベスト電器は寿命が尽きた。三代目の有薗氏はNO.2 としては有能な執行官であったが、抜本的な変革を提示できる経営能力はなかった。これはまさに悲劇である。社内幹部たちは「栄光のトップの座」に君臨している幻想を抱いて甘い汁を啜っていた(若い社員たちは見限っていたが)。平成10年を境にしたこの福岡都市圏における家電小売り構造の激変に対して、余りにも同社の経営陣は無頓着すぎた。「黒船来襲」と社内を危機感で煽る必要があったのではないか!!
ライバル企業群の福岡侵略
ではライバルの福岡進攻を、かいつまんで列記していこう。何よりもベスト電器にショックを与えたのはビックカメラの進出である。平成11年4月に天神店(現天神1号店)をオープン。意表を突いた西鉄高架下への出店である。「これで天神の人の流れが変わった。南へ商圏が拡大された」と言われる。勢いづいてというか、ヨドバシカメラの博多店開設を意識してか、ビックカメラは4年後の15年3月に天神新館(現天神2号館)を開館する。この天神2館がベスト電器の旗艦店である福岡本店に打撃を与えたといわれる。
さらにベスト電器を震撼させたのは、平成14年のヨドバシカメラ・博多店のオープンである。この年が、光男オーナーが亡くなった年であったことが一つの象徴なのかもしれない。このヨドバシカメラ博多店を覗くと圧倒される。ベスト電器の天神店も貧弱に見えるのだ。訪れるお客は同じ印象を抱いたであろう。
この一店舗の年商が400億円といわれている。ベスト電器全体の1割を売っている計算だ。福岡中心部での顧客は家電を買う選択の幅が広がった。このエリアで同社の独占というのは不可能な状態になったのである。福岡の中心部はライバル二社に制圧された。
では、郊外戦争はどうなったのか。こちらの方も関東の二社、ヤマダ電機とコジマが一瞬にして店舗のネットワークを築いた。郊外店舗は、ベスト電器よりも一回りも二回りも大きい。ヤマダ電機の店舗を受注していたあるゼネコンは一時、100億円に迫る完工高をあげたことで業界も注目を集めたことがあった。ヤマダ電機が一年間で凄まじい店舗展開を行ったことを物語るエピソードでもあろう。
郊外の消費者たちは「家電はこんなに安く買えるのか!!」と驚愕した。さらに「安い割にはメンテもそこそこしてくれるではないか」と納得したのである。「アフターメンテナンスのベスト」の優位性が保てなくなったことを意味する。平成10年から15年にかけて、『都心部旗艦店路線のヨドバシカメラ・ビックカメラ』、『郊外店舗型のヤマダ電機・コジマ』が福岡都市圏に勝負をかけてきた。この時期にベスト電器はあまりも長閑(のどか)に無策に終始していたのだ。この経緯は三回連載で報じたとおりである。(続く)
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