1271年、モンゴル諸国を統一したフビライは、新しく国号を「元」と改め、大都(現在の北京)を首都と定めた。このとき元は高麗を征服して属国とし日本に対して通好の圧力を加えるとともに、中国本土にあっては南宋に対する攻撃の手を休めなかった。1276年には南宋の首都臨安が陥落して、南宋の滅亡は目前だった。中国と朝鮮半島に君臨することになったフビライの目は、少しも恭順の意を示さない日本の討伐に向けられていった。
1231年、朝鮮に攻め入ったモンゴルの大軍は、鴨緑江を渡って開京をかこみ、高麗を降伏させた。モンゴル軍が引き上げると、モンゴル軍の再攻を恐れた高麗は都を開京から江華島に移した。精強騎馬軍団をもって大陸を席巻してきたモンゴル軍団も海には弱く、陸地から2キロほどしか離れていた江華島を30年かけても攻略できなかった。高麗水軍との海戦を避けたモンゴル軍は、陸戦に集中し朝鮮全土を馬蹄で踏みにじった。
高麗史の伝えるところによれば、「殺戮は数うべからず、いたるところの州都みな灰燼となる」とあって、そのすさまじさは想像を絶するものであった。高麗の王族や高官達は舟に財産を積み江華島に逃げ込んで身の安全を図った。彼らは、モンゴル軍の侵攻がないことに嬉々として立派な宮殿や邸宅を建て、物資は海路から運び込んで何不自由のない生活を続けた。一方、庇護者を失った人民はモンゴルの圧制の下、塗炭の苦しみをなめていたのである。
元は江華島への遷都を高麗の反逆とみなし、再遷都を強く求めていた。宮廷でも狭い江都の生活がいつまで続くのかという不安も拭い去れずにいたところ、実権者の崔氏が暗殺される政変もあり、1270年5月ついに開京への遷都を決めた。このとき、「三別抄」と呼ばれる高麗の常備軍団は、元への徹底抗戦を主張して江華島からの引き上げに応じず、元と朝廷に対して二重の叛乱を起こし、全羅南道の珍島を本拠地に王族の王温を擁立して開京とは別の高麗政府を樹立した。長い間のモンゴルの徹底的侵略によって、「百姓みな草實木葉を食う」といわれるほど疲弊しきった高麗農民も、これに呼応して蜂起した。
いささかでも抵抗するものは、徹底的に叩き潰すのがモンゴルのやり方である。開京政府としても、一国に二つの政府が並立することは認められない。かくて、モンゴル・高麗連合軍は大挙して珍島に攻め入った。必死の抗戦もむなしく三別抄は壊滅的な打撃を受けるが、一部は耽羅(済州島)に逃れ抵抗を続ける。レジスタンスの根を絶たれて孤独な戦いを余儀なくされた三別抄は、日本に諜状を送りモンゴルへの共戦を呼びかけるが、モンゴルの徳を賞賛する開京政府の諜状を信じた日本は、三別抄の要請に応えることはなかった。
1273年、耽羅はヒンドウ率いるモンゴル・高麗連合軍の攻撃を受け、三別抄軍は全滅した。高麗はモンゴルの力を背景に王政復古を果たし、以後はフビライ政権に最も忠実な属国となった。しかし、人民のなかの元に対するレジスタンス勢力は地下に潜伏し、それが元の日本侵攻を遅らせ、結果的に日本に防衛の準備期間をもたらすことになった。2万のモンゴル軍と5,000の高麗軍が合浦(慶尚南道馬山)から出発し、対馬・壱岐を襲って博多湾に迫ったのは1274(文永11)年のことだった。
小宮 徹/公認会計士
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