<酔えない酒>
明日は民事再生法の申請をする。市場も混乱するだろうし、関係者からの問い合わせも殺到するだろう。黒木は落ち着かなかった。家に帰る気分にはなれなかった。落ち込んだ顔で帰宅しては家族に心配をかけてしまう。どうしたのかと問われても答えに窮するに決まっている。一昨日、息子は入籍したばかりで、家族はきっと幸せな気持ちを胸いっぱいに抱えていることだろう。家には帰ることはできなかった。自然と黒木の足は酒場へと向いていた。力なくたどり着いた酒場で酒を飲んだ。
これまでのさまざまな思い出がよみがえる。生まれ故郷からお金をポケットに突っ込んで福岡に出て来た。昼夜を問わず働いて蓄えた金でパソコンを買った。ウィークデイは工務店、休日は資産コンサルタントとして休みなく仕事をした。辛いことなどなかった。金に困ることもなかった。社を起こしてからは急速に売上が伸びていった。あのころ新入社員で採用した茶色く髪を染めた青年は、今では立派な片腕として取締役にまで成長してくれた。社員が増えて、仲間が増えていった。設立から今まで小遣いつきの社員旅行を続けることができた。従業員に無理をさせて株式を公開することができた。自分が上場企業の創業社長になるなんて、福岡に出てきた頃には考えてもいなかった。上場すると大きなプロジェクトも舞い込んできた。売上はさらに上伸していった。黒木の脳裏に、楽しかったこと、辛かったことが思い出された。気持ちは複雑だった。寂しさ、悲しさ、無力感、安堵感。これらの感情が入り混じって、大きな感情の波をつくり黒木を飲み込んでいった。その日はどれだけ酒をあおっても、決して酔うことはなかった。
最近は倒産の噂からか、自宅にまで記者が張り付いていた。明日、民事再生法を申請したなら、彼らがいっせいに動き出すことになるだろう。記者会見も開かなくてはなるまい。記者たちから厳しい質問もなされるだろう。非難されることも考えられる。それを見た家族はどんな顔をするのだろうか。これまでのものとはまったく違う、経験したことのないプレッシャーが黒木を襲う。
結局、眠ることもままならないまま、ついに14日を迎えることとなった。
【柳 茂嘉】
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