1273年、フビライ政権は南宋への全面進攻作戦と並行して、ヒンドウ率いるモンゴル・高麗連合軍をして耽羅にこもる三別抄軍を攻撃せしめ、最後の抵抗を続けていた三別抄を撃滅した。耽羅は南宋と日本の双方に通じる航路の要衝点である。モンゴル軍は、朝鮮半島周辺の制海権を手中にして南宋と日本を両断できる戦略的立場を得た。フビライは南宋の撃滅をにらみつつ日本侵攻を企てる。海軍力にまさる南宋が、日本と手を結び元軍を挟み撃ちすることを妨げる作戦だった。かくして1274(文永11)年、三別抄討伐軍を中心とするモンゴル・漢人部隊に高麗兵を加えた2万7千の軍団は合浦から出発して、途中の対馬と壱岐を席捲したのち博多湾から上陸した。
日本側は12万の兵士を揃えて元軍を迎え撃った。戦場で互いに名乗りあい一騎打ちで勝負を決しようとする鎌倉武士に対して、モンゴル軍は集団で敵を包み撃つ作戦を常としていた。モンゴル兵の短矢は日本側の長矢よりはるかに射程距離が長い上に先端には毒が塗られていた。日本側に打ち込まれる「鉄炮(てつはう)」と呼ばれた火の玉弾の炸裂は、火戦に馴れていない日本軍の戦意を喪失させた。モンゴル軍は退却する日本軍を追撃しつつ博多、箱崎を占拠した。日本軍は太宰府まで退かねばならなかった。ここで兵士の数に劣る元軍は深追いをやめて、いったん軍船に退くことにした。ところが退却中に博多湾を大型の台風が襲った。強い風をまともに受けた艦隊は300隻以上の舟を失い、大勢の兵士が海の藻屑ときえた。砂浜には打ち上げられた兵士の死体で小山ができるほどだったという。
無残な敗戦に日本に対する怒りを燃やしたフビライだったが、復讐の念は胸に秘めて当面は宋の撃滅作戦に全力を集中することにした。なによりも、南宋の艦隊に対抗できる強力な海軍を創設しなければならなかった。そのためには新たな軍船の建造と海員の訓練が急務である。南宋から寝返った司令官や商人の協力によって急速に力をつけていったモンゴル海軍は、揚子江とその沿岸を襲撃し3,000艘を超える宋船を奪取した。こうして1275年になると揚子江は完全にモンゴルの支配下に入った。1276年、孤立した宋の首都・杭州は陥落し南宋は滅びた。1279年、ついにフビライを支配者とする大元帝国が成立した。日本再攻の機は熟したのである。
最初とは違って、2回目の侵攻目的は日本を大元帝国の版図に組み入れることだった。1280年、フビライは、東海の列島を征服するために10万の兵からなる遠征軍を準備すべしという命令を発した。組織された江南軍の大部分は降伏した南宋の職業軍人だった。10万の江南軍を乗せた艦隊はその年の年末、臨安、泉州の両港から出航して先ず高麗に向かった。高麗で900艘の軍船と4万の兵士から成る東路軍と合流した一団は、水平線を埋め尽くすほどの威容をもって日本へと向かう。壱岐を落し九州の上陸戦に勝利するところまでは前回と同じであった。しかし、今回は日本側の作戦が違った。元軍が陸上戦に気を取られているあいだに、日本側は小船を使って停泊中の元艦隊を襲い火を放った。思いがけない抵抗に会った元軍は、退却を決意始めた。
このときである。博多湾を滅多にないほどの台風が襲った。あわてて沖に逃げようとする元の戦艦同士の衝突が被害に輪をかけた。中国の史書によれば、日本人は7万の中国兵を捕虜とし、3万のモンゴル兵を殺し、中国の海岸に帰り着いた敗残兵の数は、きわめて少なかったとある。かくて、日本史上にいう弘安の役は終わった。この大勝利によって、日本には「カミカゼ」という超自然的な力が日本を護っているという迷信がはばをきかせ、大東亜戦争末期の特攻隊の名前にまで尾をひくことになった。フビライは、その後3回目の日本遠征を企てたが、東方王家の大反乱が勃発し日本遠征用の兵団をつぎつぎと北方戦線に投入しなければならなくなった。日本は、結果として外敵の侵略から国を守ることができた。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
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