<本特集について>
2010年4月19日(月)、NetIB-NEWSは「激変時代の日本 地域自立の新ビジョン」シンポジウムをアクロス福岡にて開催しました。本記事では同シンポジウムのなかから総務省顧問・山﨑養世氏による講演内容を一部抜粋して紹介します。
近代日本の第二産業革命
とにかく、ドイツは国土と交通の体系をつくったことで経済が発展したことを、戦後、アイゼンハワーが真似した。彼は第一次大戦の直後、自ら部下を率いワシントンからサンフランシスコまでトラックで行ったそうです。それが2カ月もかかった。戦争でドイツに行ったときは1日で行けた。もう一度戦争が起こって中国や日本がカリフォルニアに攻めてきたら、そこにたどり着く前に半分くらい占領されてしまうじゃないか―それが一番大きな理由となって、アメリカにも無料の高速道路をつくったのです。
そのときに、日本にもつくれと言ってつくられたので、日本とアメリカの高速道路が生まれた年は同じなのです。それが1956年で、私が生まれる2年前です。そして、アメリカの研究所が技術を教え、資金も3分の1を貸してくれた。だから、高速道路は日本とアメリカの合作だったのです。
それによって、何が起きたか。戦後すぐの日本は農業国家でした。4分の3の人は農村に住んでいましたが、25年経ったら何が起きたか。4分の3が大都市に住んでいます。その間、日本は脅威の高度成長を果たし、最新鋭の日本人が日本の会社で働いてつくった優秀な商品を、トヨタやソニーやキヤノンや松下はアメリカにどんどん輸出しました。それがどんどん売れていくわけです。
アメリカの消費者に、アメリカの会社よりも支持されたから日本は経済成長したわけでしょう。戦後伸びた企業というのは、アメリカの消費者に買ってもらえる産業、もっと言えば車とか家電とかカメラとかの単品産業ですよね。決して財閥ではないです。トヨタもキヤノンも大きいけれど、生まれが違えばグループの成り立ちが違い、グループのあり方が違う。財閥をつくらないでしょう。みんな単品に集中するのです。これが近代日本の第二産業革命です。それが終わりました。ここからが難しいのです。
勝利の方程式を変えるだけ
日本経済は残念ながら、いわば敗戦しました。明治維新では黒船が来て負けた、戦後は焼け野原で負けたと分かる。でも今は、残念ながら負けがはっきり見えないのです。東京は発展し、福岡も美しいですよ。すばらしい街でアジアからも人が来る。日本経済が根底から負けたのだということが、おそらく皆分からない。
そうすると、何に負けた、どこに負けたということですが、経済競争に負けたのです。たとえば80年代の終わり際、日本は世界の工場でした。日本のなかに工場があり、日本人が働いていた。優れた製品をつくってアメリカに売り、ドルをもらい円に替えて、それを自民党が全国に配ったのです。立派な政治ですよ。
これにより、日本は一億総中流社会ができました。戦前と違って、農村と大都市の生活の格差もない。実質的には、生活の余裕という意味では、田舎の方が豊かだったかもしれません。こんなことは日本の歴史においてなかったわけです。9割の国民が中流階級という豊かな社会をつくった点は、自民党の大功績です。
ただし、その大功績の前提には、日本人がつくったものをアメリカに輸出し、アメリカが買ってくれたから豊かになったというのが勝利の方程式です。これが今ありますか。
なぜ、竹中平蔵さんや小泉純一郎さんたちが経済問題を解決できなかったか。「負けた」ということを認めないからです。企業が復活すれば、規制緩和すれば、グローバル化すれば日本はまた豊かになる―なるわけがないのです。グローバルになるということはどういうことか。日本から出て行けということでしょう。ではどこに行ったか。一番は中国でした。
これから先について、答えは本のなかに書いてあります。歴史のなかにあります。昔どうやって発展したか、今はその方程式をちょっと変えてあげればいいのです。
【山﨑 養世(やまざき やすよ)】
1958年生まれ。福岡市出身。東京大学経済学部卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)経営学修士(MBA)取得。大和証券を経て、ゴールドマン・サックス投信社長として同社を外資系トップの投信会社に育てる。ゴールドマン・サックス本社パートナー(共同経営者)等を歴任。02年、同社を辞し、シンクタンク山崎養世事務所を設立。金融・財政・国際経済問題等の調査・研究、政策提言を行なう。09年10月、総務省顧問に就任。09年12月成長戦略総合研究所を設立、理事長に就任。
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