15世紀に琉球王国が誕生した。初代の王は尚思紹である。以後王は尚姓を継承した。最後の琉球国王は尚泰だった。尚泰は1848(嘉永元)年に即位し在位25年目の1872(明治5)年、琉球藩主に封じられ7年後の1879(明治12)年の廃藩置県による琉球藩廃止まで約30年の間王位にあった。琉球は政治的には清国の支配下にあり、一年おきに進貢船を派遣する通交関係が続いていた。1866(慶応2)年には尚泰が正式に琉球国中山王に封じられている。一方、薩摩藩からは経済的な支配を受けていて政経分離の二重支配体制が続いていた。
明治維新によって幕府が崩壊すると、明治新政府は琉球をめぐる国際関係を整理する必要に迫られた。近代国家を目指す日本は、先ずは隣国である朝鮮との関係修復を試みた。しかし、宗主国清国皇帝の怒りにふれることを恐れた朝鮮は、日本との関係改善に消極的だった。もともと朝鮮通信使などの制度を通じて徳川将軍家と交際を続けていた李氏朝鮮王家は、徳川を倒した明治政府に好意を持っていなかったという事情もあった。
明治2年、諸侯の版籍奉還によって薩摩藩主島津久光が鹿児島県知事に任命され琉球もその管轄下に入ったが、薩摩の名前が鹿児島に変わったくらいで事態にさしたる変化は起こらなかった。明治4年に廃藩置県が断行されたときも、琉球当局者は直接明治政府の管轄下に入ることを危惧し、このまま薩摩に属しつつ、奄美五島の返還をひそかに期待したくらいである。じかし、事実はそのようにはならなかった。明治5年、朝令により琉球藩が設置され藩主の尚泰は華族に列せられたが、琉球藩が締結した外国条約は外務省の管轄となり、琉球藩の外交権は、はく奪された。これが「琉球処分」の実体である。
清国に対して、琉球が日本領土であることを強調したい大久保利通は、松田道之を内務大丞に任命し琉球処分の実をあげることを命じた。明治8年、琉球に着任した松田は、現地で「探訪人」を使って藩内の実情を探り、民心を離れた一部士族の反抗を排して処分を強行した。明治9年には琉球藩に対し清国への臣礼謝絶が伝達された。藩側は現地と東京で陳情・嘆願を繰り返すが認められなかった。清国も、琉球の進貢を差し止めたのは日清修好条約に反すると激しく抗議したが、日本側は発言の修正を求めるなど強硬手段にでたので、会談は行われず両国の関係は冷えきってしまった。
廃藩置県後の明治12年6月、琉球の領土問題をめぐる日清会談が北京で開催された。来日中の前アメリカ大統領グラントが斡旋にあたったものである。宮古・八重山を清国に割譲する代わりに琉球を完全に日本領とする案が成立しかけたが、清側は、沖縄本島を含む中部の諸島に琉球王国を復活して日清両国の保護下に置く案に固執した。これは、「恭順な朝貢国」の復活を意図するもので、日本側の「琉球処分」とは真っ向から対立するものだった。こうして北京会談は不調に終わったが、その後起こった日清戦争の結果、沖縄では清国に頼ろうとする動きも消滅し「琉球処分」だけが残ったのである。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
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