<瀧本氏の突然の死去>
幼馴染の瀧本氏と浜崎氏の因縁は続く。瀧本氏が審査部の次長へ栄転すると、浜崎氏が大阪支店の次長に昇格し、引き継ぎを受けている。その後、95年に瀧本氏の後を受けて浜崎氏は新宿支店長となった。大阪支店長、北九州支店長を経て01年6月、取締役宇部支店長となる。
瀧本氏は常務取締役営業本部長の要職についたが、その期間中に情報漏洩など営業店の不祥事が多発。役員間のなかでも本部長としての資質が問われる状況に陥っており、責任をとらなければならない時期だった。過半数を確保するためクーデターに参加することは、自分自身の身を守るための絶好の好機だったと言える。
本来、業績不振の責任を取って自ら辞任すべき要職にありながら、瀧本氏は千載一遇の好機を得て常務取締役東京本部長へと転出した。その後4年間、東京駐在常務の職に就いていたが、08年6月の株主総会にて山口銀行の役員を退任。病気療養中の広田秀夫理事長と交代し、山口経済研究所の理事長に就任した。家族はそのまま東京に置き、生まれ故郷の下関に戻って単身赴任を満喫していたと言われている。
08年9月17日、前釜山支店長の川添氏が若くして病気で亡くなり、釜山支店関係者が山口銀行本店から歩いて5分近くにある小料理屋で追悼の宴を催し、瀧本氏もその会合に出席。その後、好きな酒を仲間と2軒ほどハシゴして夜12時過ぎ自宅に帰る途中、水路のガードレールの隙間から足を踏み外し転落した。打ちどころが悪かったのか、不帰の人となっている。警察は事件の可能性があると見て司法解剖したが、事件性は見当たらず、事故死として処理された。そのため、葬儀の日取りは1日遅れとなった。6月まで山口銀行の現役の役員であったことから通夜、告別式は銀行関係者や同窓生の参列を得て盛大に執り行なわれた。また、田中相談役、福田頭取、末廣専務など山口銀行の経営陣もその功績を称えて多数が参列している。
<友人代表、片野良平氏>
瀧本氏の突然の死去に、遺族側は葬儀の友人代表挨拶を、下関西高の1年先輩で同じ慶応大学卒業の片野良平氏に依頼した。片野氏は慶応大学で同窓の現民主党幹事長・小沢一郎氏とも懇意であったと言われている。大学を卒業後、野村証券に勤務していたが、父親が経営する老舗の食肉問屋「静公司」の社長を継いだ。故郷の青年実業家としてメキメキと頭角を現し、83年に下関市の青年会議所第30代理事長に就任している(図2)。
一方で、片野氏は(株)サンシズカを立ち上げ、「サンシズカ」名で下関市内を中心にスーパー事業を展開していった(図3)。また93年、下関市の北部に位置する綾羅木新町にオープンしたミスターマックスを核テナントとする「ハイパーモールメルクス」に「バリューハウス」の店名で出店。併設したレストランの「しずか亭」とともに好調な滑り出しとなり、以後次々とスーパー事業を展開。レッドキャベツ(本社:下関市)と同様に下関を代表するスーパーとなった。
もともと片野氏が経営するシズカグループのメイン銀行は、福岡相互銀行であった。山口銀行とは融資取引がなかったが、下関商工会議所の会頭をしていた伊村光・山口銀行頭取(当時)に気に入られ親しくなったことから、山口銀行と本格的な取引を開始した経緯がある。先述のスーパーモールメルクスに「バリューハウス」をオープンしたときに協力したのは、大阪支店次長から山口銀行綾羅木支店長となっていた浜崎元取締役であった。
しかし、次々に事業展開する一方で、大手スーパーや競争の激化を受けて急速に業績が悪化していった。その結果、山口銀行の仲介で丸喜の傘下に入ることになる。
さて、瀧本氏の遺族はそんな片野氏に友人代表の挨拶を依頼したが、大きな焦げ付きを出しその清算のため丸喜にサンシズカの事業を継承させた山口銀行にとって、到底納得できることではなかった。片野氏に友人代表挨拶をやめさせることはできなかったが、急遽、元山口銀行取締役で銀行関連会社の村上啓二氏(慶応卒)を銀行側の友人代表挨拶に加えている。友人代表の挨拶をした片野氏は、長年、下関商工会議所の情報サービス部長を務めていた。しかし、丸喜からの受け入れはなく、翌年失意のうちにガンで亡くなった。
<保険会社との癒着問題>
伊村頭取(当時)と親しかった会社はこのようにして消えている。伊村会長の晩年における田中頭取(当時)との確執が現れたのかもしれない。田中相談役と田原頭取との亀裂を生んだ大きな要因はいくつか考えられるが、最たるものが「生命保険会社との癒着問題」だ。最近上場を果たした保険相互会社本社の業務推進部外務調査役の肩書きを持つS女史と、田中相談役との保険勧誘における癒着ぶりを指すと言われている。
ある支店長に対するS女史の、保険紹介のお礼の手紙を入手したのでその内容を掲載する(図4)。この手紙を受け取った支店長は、○○次長の支店長への栄転はS女史の推薦によるものであり、「今後ともよろしく」の言葉のなかに「あなたももっと保険勧誘に協力すれば栄転しますよ」という思惑を肌で感じたと言う。
新任の支店長には人事異動の新聞発表前に「ご栄転おめでとうございます」と間髪入れず連絡があり、件のS女史と人事部とのパイプの太さを改めて痛感し、保険勧誘に協力することになったと述懐する支店長は多い。保険勧誘に協力しなかった支店長や役員が更迭されたとの噂もあり、支店長のみならず支店長への昇格を望む支店幹部はS女史に認められるため、積極的に保険勧誘に精を出すものが多く、S女史に認められることは田中頭取に認められることと同義語であった。S女史の一挙手一投足に行員は神経を使い、さながら虎の威を借りる狐に対して、社外重役なみの対応をしていたとも言われている。
田中頭取室には2本の電話があり、そのうち1本は秘書室を通さないS女史とのホットラインがあったという証言もある。特定の保険会社との癒着を嫌う田原頭取は、その電話の存在を知って撤去したとも言われている。
聞くところによると、山口銀行で出世するには(1)田中相談役と同じ慶応出身、(2)組合の幹部出身、(3)人事部出身、(4)S女史に認められる―といったことが大きな条件であったようだ。
田原頭取に対案を提出したとされる「役員の1人」は故人となっている。北九州銀行の頭取に就任する最有力候補の加藤敏雄・現北九州本部長も守旧派だ。組合の委員長でありながら、ただ1人守旧派に投じなかった井上秀則取締役は2年前に退任し、現在はちまきやホールディングス社長となっており、田原頭取再任に回った7人の役員のうち、高橋哲彦監査役を除き一掃されている。クーデター事件は役員OB会にも大きな傷跡を残していると言われている。
こうした歴史的背景のなか、北九州銀行設立構想が生まれた。山口銀行のなかでも、なぜ下関の目と鼻の先に銀行を設立するのかといった意見もあるなか、成功するか失敗するかいまだに見えない部分も多い。
【特別取材班】
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