アヘン貿易の公認・非公認が契機となって起こったアヘン戦争は、圧倒的な海軍力を誇るイギリスが圧勝してその幕を閉じた。1842年8月、清朝はイギリスとの間に、香港の割譲と上海ほか5港の開港を骨子とする南京条約を締結した。この条約にしたがって上海が開港されたのは1843年11月17日である。1993年のこの日は、上海が開港して成立したイギリス租界の150周年記念日として盛大に祝賀された。租界上海は良くも悪しくも近代中国の転換点となった。
初代イギリス領事バルフォアが赴任したのは、まだ戦争の爪あとが残る1843年11月のことだった。自由港となった上海には、ジャーディン・マセソン商会やデント商会など広州でアヘン取引を行っていた商人が新しい拠点を求めて集まってきた。彼らの居留地としてイギリス租界が設定されたのは、それから2年後の1845年11月のことである。
清朝との土地協定によって、イギリス租界は上海県域の北側に置かれることになった。東側には長江に連なる黄浦江が流れている。イギリス人は貿易の拠点を建設するために黄浦江の西岸に船着場を整備し港から街への道路を作った。イギリス人は、このウォーターフロントを「The Bund(中国語では外灘)」と呼んだ。Theの定冠詞は、上海が一つしかない重要な植民地だということを表している。こうしてバンドは上海の表玄関となり、その後のビジネスの重要な機能は上海に集中することになった。
幕府の使節団一行が上海に着いたのは1862年5月のことだった。一行には、藩主から外国事情の調査を命じられた長州藩士の高杉晋作のほか、のちに明治政府の海軍をつくった中牟田倉之助や、やがて実業界で身を立てることになる薩摩の五代才助が参加していた。上海に着いた高杉らを驚かせたのは港の活況とそびえたつ建物の威容だった。彼は、その様子を「上海は支那第一の繁盛港である。欧州諸国の商船、軍船数千艘が停泊していて、そのマストは林立して港を埋めんばかりである。陸上は諸国商館の城壁が千尺につらなり、あたかも城閣のようである。その広大さは筆舌につくしがたい。(高杉晋作航海目録より筆者抄訳)」と記している。
このころ英書の購読に手をつけていた高杉だったがまだ会話はできない。清人との筆談をたよりに街に出た高杉だったが、租界に並ぶ整然とした西洋風の建物に比べて、中国人が住んでいる街の汚さはひどいものだった。高杉は、そこで威張りくさっている西洋人と彼らにこきつかわれている中国人の哀れな姿に強い衝撃を受ける。高杉らが上海に上陸した直後の6月、太平天国の叛乱軍が上海の北方に位置する宝鎮まで迫った。砲声は高杉の耳まで届いた。戦闘能力を喪失していた清朝政府は英仏軍の援兵を乞うた。楽隊を先頭に出撃する英仏軍の威容を目の当たりにするにつけ、高杉は日本が上海の二の舞を演じ、列強の植民地になってはならないと痛感したのである。
上海視察を通じて、国際情勢の大勢を悟った高杉は、こののち、富国強兵と攘夷の決行に踏み切ることになる。帰国直後オランダの蒸気船を藩の裏金で購入し、その年の12月、過激にも品川御殿山のイギリス公使館に焼き打ちをかけたのは、それだけ上海で受けた衝撃が強かったからであろう。後に長州は、坂本龍馬の亀山社中を通じて7,300丁の新鋭銃と軍船ユニオン号を購入し、その火力を駆使して幕長戦争に勝利して倒幕の火蓋を切った。それらの武器は上海から運ばれたもので、取引を仲介したのはジャーディン・マセソン商会・極東支配人のトーマス・グラバーだった。ある意味で、日本の幕末は上海から始まったのかもしれない。少なくとも、上海航路は、幕末の日本と世界を繋ぐ太いパイプだった。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社
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