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(株)千鳥饅頭総本舗~内紛の鎮静化、そして新たな課題(上)
特別取材
2010年8月21日 08:00
 千鳥饅頭の「千鳥屋」の経営者一族はかつて、遺産相続を巡りトラブルが発生。法廷闘争にまで発展した。当事者のひとつ(株)千鳥饅頭総本舗は、経営者が夫人に代わり、子息たちが経営に参画している。騒動の鎮静化後に、反省を活かし一丸となって経営に臨んでいるように見られたが、ここに来て新たな課題を露呈している。

福岡に2つの千鳥屋

(株)千鳥饅頭総本舗 「どちらが経営する店舗か分からない」―内部事業を知る顧客は、戸惑いを隠せない。福岡には、(株)千鳥饅頭総本舗と(株)チロリアンが経営する店舗が混在している。千鳥饅頭総本舗を組織したのは原田光博氏。一方のチロリアンの社長は原田利一郎氏。2人は、母・原田ツユ氏の元で今日の千鳥屋を築き上げた兄弟だ。

 「千鳥屋」は1630(寛永7)年に佐賀県久保田町で創業した「松月堂」が起源ということになっているが、飯塚に本拠を構えて「千鳥屋」の屋号で営業を始めたのは1927年。炭鉱景気を追い風に基盤を築き、戦後の49年に福岡へ進出、両都市を中心に店舗網を形成してきた。62年には千鳥饅頭に次ぐヒット商品「チロリアン」を発売。「子どもたちの誕生会のお土産は決まって缶入りチロリアン」という時期もあった。いくつかの菓子舗同様に高度経済成長の波に乗ったが、躍進を支えたのがツユ氏の力量だ。54年に夫を亡くした後に事業を継承したツユ氏は、子息たちを抜擢して業容を拡大していった。

 ツユ氏は5男3女をもうけている。女性3人は県内外の名家に嫁いだ。男性5人のうち夭折した四男以外はいずれも事業に携わっている。長男・良康氏は、64年に進出した東京を担当。三男・太七郎氏は、73年に開設した大阪を受け持った。両者とも現地に根を張り、現在はそれぞれ別法人として経営している。福岡に残ったのが、次男の光博氏と五男の利一郎氏。ツユ氏の力量はもちろん、2人の活躍により千鳥屋の隆盛は築かれた。実力のある息子を4人も持ったことで、ツユ氏の組織運営は着々と進んだ。家族としての兄弟仲にも自信を持っていた節がある。店舗などの不動産を生前に贈与してしまっているが、その手法はそれぞれに一カ所ずつ与えるのではなく、多くの物件で持分所有というかたちになっている。これが後の紛争の火種になった。
 95年12月に一時代を築いたツユ氏が亡くなると、不動産資産をめぐる争いが勃発。光博氏の手法への反発が強く、兄弟・姉妹が参加する裁判に発展。とくに利一郎氏側との係争は、長引いた。この過程で持分所有の不動産は随時売却されていった。また、利一郎氏がチロリアンの代表に就任。飯塚市に本拠を構え、博多駅・デイトスなどの店舗を割譲して今日に至っている。

業容拡大させて係争決着後に光博氏逝去

 光博氏経営の千鳥饅頭総本舗(旧・(株)千鳥屋ファクトリー)は、呉服町に本店を設置。新宮町のセントラル工場を製造拠点に事業を展開している。現在自社物件となっている不動産は、兄弟からの持分の買い取りを進め所有権を明確にしている。
 光博氏は、チロリアン発売の翌63年からヨーロッパで修行していた時期がある。この頃、現在のウルズラ夫人と出会った。帰国後は、ドイツ菓子店「エルベ」を出店してさっそく修行の経験を活かしたほか、71年にはパンの「スベンスカ」を起こした。千鳥屋ファクトリーを設立したのは、ツユ氏死後の97年8月。係争の最中の2000年にスベンスカを吸収合併し、チョコレート専門店の「アナベル」を出店している。千鳥屋ファクトリーから現商号の千鳥饅頭総本舗に変更したのは05年である。
 ところがこの間、病魔に侵されていた。「悪性リンパ腫」である。闘病は10年以上におよんだとされ、病魔と闘いながら親族と向き合っていたことになる。光博氏は08年6月に逝去した。

(つづく)

【鹿島 譲二】

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