15世紀のイベリア半島ではポルトガルが勢力を伸ばしていた。ポルトガルは、さらなる領土の拡大と、ヨーロッパ人の食生活に欠かせない胡椒などの香辛料を入手するため、海路東方への進出を狙っていた。そのような背景のなか、強力な商船隊を派遣したポルトガル人は、港に海上にイスラム商人の船を襲撃しつつ、インド洋からインドネシア諸島にかけての制海権を手中にした。彼らはそこで、中国貿易が莫大な利益を生むことを知った。インドからマラッカへと東進して中国に入り、マカオを占めて中国との貿易に臨もうとしたポルトガル人は、マカオの地方官憲の認可をうけてマカオを拠点とすべく、1514年、3隻のジャンクを送って明朝との正式な通商を求めたが不調に終わった。
官許を受けられなかったポルトガル人たちは、東シナ海に出没して広東、福建、浙江などの沿岸で中国商人たちとさかんに密貿易を行なった。その拠点となったのが寧波である。1543年(天文12年)、中国商人王直の船で東に向かったポルトガル人の一団は種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えた。これが契機となって始まった日本との貿易も寧波が起点だった。
その後、密貿易は、海禁政策をとる明朝政府によって厳重に取り締まられ、1548年には政府軍が寧波を急襲してこの地に壊滅的打撃を与えた。江南沿海部の拠点を失ったポルトガル人は日本の長崎に本拠を移し、広州に近いマカオを中国貿易の拠点とした。マカオは陸地と砂州でつながった半島にあり、その南の海上にはタイバ島とコロアン島がある。1553年、ポルトガル人は、船が座礁し朝廷に納めようとした品物が濡れてしまったので、乾かすために上陸したいと申し立て、中国側の管理部局の役人に賄賂をおくりつつ強引に上陸してしまった。
ポルトガル人はさっそく建物や城塞を築き、3つの門でポルトガル居住区を囲い込み既得権を守るとともに、明政府に協力して付近に横行する海賊の討伐を申し入れた。明政府の海禁政策に協力しながら、かつての商売仲間の海寇たちを一掃するという一挙両得の作戦である。冒険商人としてのしたたかな計算がそこにあった。1573年には、ついに明朝政府も、毎年地租500両を納めることを条件に、ポルトガル人のマカオ居留権を正式に認めた。ポルトガル人は、マカオだけでなく朝貢諸国にのみ公開されている広東港にも公然と出入りして貿易を行なった。
こうしてポルトガル人は、本国のリスボンとインドのゴアからマラッカ、マカオ、日本に連なる貿易航路を確立してアジア貿易を拡大していった。1639年(寛永16年)、徳川幕府が鎖国に踏み切り、翌1640年ポルトガル人が広東港への出入りを禁止されるようになると貿易は衰退し、さしもの繁栄を示したマカオも次第に衰微するようになっていく。加えてオランダ人が台湾などを拠点として中国貿易に進出するようになると、中国貿易に対するポルトガル人の独占権は次第に失われていき、代わってオランダが、新たなアジアの海の主人公として歴史の舞台に登場するのである。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社
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