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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(39)~東洋艦隊司令長官マシュー・ペリー
今、歴史から元気をもらおう
2010年10月 2日 08:00

 1852年3月24日、海軍士官マシュー・カルブレイス・ペリーは、アメリカ東洋艦隊司令長官に任命された。ペリーは海軍内にあって熱心な蒸気船導入論者だった。1807年、ロバート・フルトンが開発した初の蒸気船航路がハドソン湾に開設されて以来、アメリカでは相次いで優秀な蒸気船が造り出されていた。蒸気船が時代を転回させようとしていた。いち早くこの情勢を察知していたペリーは、軍一部上層部の保守的な反対を押し切って積極的にアメリカ海軍への蒸気船の導入を進めた。彼の進言によって、1837年に進水したのがアメリカ海軍初の本格的武装蒸気船フルトン二世号である。後に彼は「アメリカ蒸気船海軍の父」と呼ばれた。
 1794年4月10日、マシュー・ペリー(カルブレイスはセカンドネームである)は、ロートアイランド州ニューポートで海軍一家の三男として生まれた。ペリー家はイギリスからの入植者を祖としている。ペリー家はこの地で農地を開拓しつつ、三代にわたって地位と財産を築いた。ペリーの父クリストファーはその4代目である。1775年独立戦争が始まるとクリストファーは独立軍に身を投じ、ロートアイランド州海軍を名乗る私設の軍隊に参加して海上でイギリスとの遊撃戦に従軍した。1809年、14歳のペリーは士官候補生として海軍入りした。正規のアメリカ海軍が創設されたのはマシューが生まれた年だったから、そのときはアメリカ海軍もまた14歳の少年だった。
 その頃のアメリカの重要産業の一つは捕鯨だった。産業の急速な発展に伴う動力油や潤滑油としての鯨油は、いくらあっても足りなかった。ハワイを基地にしていたアメリカ捕鯨船は、漁場が拡大するにつれ東太平洋での操業が増えていったが、そのためには、ハワイと極東の漁場の間に石炭などの中間補給基地を確保する必要があった。アジアの植民地を次々と基地化して東進を続けるイギリスに対抗するためにも、どうしても日本近海の基地が必要だったのである。アメリカ政府は日本遠征を目的とする東洋艦隊を編成した。ペリーはその二代目の司令長官となった。
 1852年11月24日、ペリーは蒸気船ミシシッピ号だけを率いて、単艦ケープタウン経由で日本を目指した。艦隊の旗艦サスケハナ号と帆装船のプリマスとサラトガは香港で合流し、残りの8隻は準備が整い次第追走することになっていた。ペリーはワシントンノフォークからアフリカ西岸のマディラ諸島を目指したが、これは、かつてコロンブスが日本を目指し辿った航路とは正反対だった。アジアに入ったペリーは、香港で艦隊を編成して上海経由で琉球に向かい、1853年5月26日那覇港に入港した。琉球来航は日本との開国交渉が長引いた場合に備えて琉球に基地を確保するためである。琉球は薩摩藩の属領であると同時に、清国にも朝貢するという二重外交の国で、幕府の威令は行なわれていなかった。ペリーは幕府が開国を拒否した場合は、その報復手段として琉球を占領する計画をもっていてあらかじめ本国政府の承認も得ていた。
 ペリーの琉球に対する見解は次のようであった。「琉球がどの国に属するかは今なお議論のある問題である。それは日本の薩摩候の属領という人もいれば、中国に属すると想像する人もいる。しかし、琉球は絶対的に日本に属している属領であるほうが確からしく、中国にたいしても貢物を送っていることは疑いがないから、多分いくらかは同国にも従属しているのであろう。(大江志乃夫 ペリー艦隊代航海記 朝日文庫128頁)」
琉球が分権統治下にあると判断したペリーは、強引な手段に出た。
 入港からわずか10日後の6月10日、ペリーは大砲2門と210人の海兵隊をひきいて首里城に入城して琉球政府に圧力をかけた。政府の三司官たちは、国王の病気を理由に入城を拒否しようとしたが、ペリーは今にも砲撃を加えんばかりにおどして入城してしまった。ペリーは手始めに那覇に石炭の貯蔵施設を建設するために、土地を借り上げアメリカ側が施設を建造して使用する案を提示したが、琉球政府は、新たに施設を建設し無料で提供すると申し出た。このときは、ペリーがいったんは引き下がった。
 6月9日、ペリーはサスケハナ号とサラトガ号を従えて小笠原諸島へ向かった。石炭補給基地を小笠原島に求めたものである。ペリーは、小笠原諸島の主権が最も早い発見者である日本に帰属することを認めながらも、用地を借り上げもしくは買い取ってアメリカの租借地とすることを考えていた。さらに目指す先は日本である。4隻の鋼鉄船から成るペリー艦隊が浦賀沖に現れたのは1853(嘉永6)年7月8日のことだった。沖縄では黒煙を吐いて動く船を「火車」と呼んで大騒ぎしたが、日本ではペリー艦隊は「黒船」と呼ばれて恐れられた。江戸をにらんで砲撃を加えんとする圧力に屈した徳川幕府は、長年固持してきた鎖国令をあっさり撤回して、開国の道を選んだ。
 幕府が神奈川条約と言われる「日米修好条約」を結んだのは1854(安政元)年1月のことである。ひとたびアメリカと和親条約を結んだ幕府は、他の国々との条約締結を拒めなくなっていた。その年の内に日英和親条約と日露和親条約が、次の年には「日蘭和親条約」がそれぞれ締結された。一方、琉球政府は1854年7月11日、琉米修好条約を結んで、沖縄のすべての港を開港した。通商は自由貿易とされたが、アメリカ人の自由が大幅に保障されることになった。「大砲を抱えた外交官」と言われたペリーは、一発の砲弾を放つことなく日本と琉球をして開国せしめた。
 ペリーに続いて琉球政府は1859年にはフランスと、59年にはオランダと修好条約を結んだ。幕府は横浜の外交団長格のイギリス公使に「琉球は日本の領土だから勝手にしないように」と釘をさしたが、すでに弱体化していた幕府に交渉力は残っていなかった。日本が琉球を領土としたのは、幕府が滅亡したあとの明治維新における廃藩置県によってであった。

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社
http://www.orionnet.jp/


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