DKホールディングスの倒産時の代表取締役社長であった岩倉正道は、年配の商社出身のパートナーはいたものの実質的には一人で事務所を切り回していた黒田が、事業の拡大とともに最初に採用した若手であった。昭和43年に生まれ、福岡市内の公立高校を卒業しボウリング場に勤務していたが平成2年、22歳で黒田事務所に入社した。
スマートで若さと楽天性を持ち合わせており、黒田とはかなり異なる性格の持ち主であったが、それゆえに黒田とよいコンビであったのあろう。黒田は、後になって何かと部下を叱り付けることがあっても、岩倉に対しては大いに甘かったというのが周囲の評価である。平成8年には黒田事務所の取締役となり、その後平成9年にDKホールディングスが発足すると同時にその取締役、そして平成11年以降、専務として長く勤務した。
その頃は、他に黒田の実兄が専務として在籍しており、主に兄が管理面、岩倉専務が営業企画を担当していた。DKホールディングスの営業企画とは、建物の企画・設計・事業計画立案のことを指す。上場後、黒田の兄は創業者利益を実現して退任し、その後は岩倉専務がDKホールディングスの管理面を含めて全般を通じて黒田を補佐する、という立場となった。
全体として、黒田の影に隠れ、従容として黒田についてゆく立場ゆえか、独自性が見えない、というような厳しい意見も聞かれたが、黒田は、岩倉には決断力がある、といつも評価していた。それとは別に私は、おとなしそうな外見に係らず、この人は案外に野心家であると感じていた。
平成17年、黒田は、岩倉を江口の後継の東京支社長として送り出した。岩倉が黒田の下を離れたのはこれが初めてであった。
その後平成20年、黒田は社長交代を決断する。同業の新興企業には30代の創業者社長も珍しくないので、早めにバトンタッチしたうえで、自らは会長として後継を指導したい、というのが黒田の言であった。当時、既に不動産業界では金融環境の変調が顕在化しつつあった。また、社内体制面でも、黒田本人への依存度がまだまだ高いというのが実情であったため、周囲には、なぜ交代を急ぐのかといぶかしむ声もあった。それは本人が最も声を大にしていいたかったところであろう。しかし、岩倉は持ち前の従順さで社長就任を承諾し、すぐ市場悪化のなかで苦闘し、やがて民事再生にも立ち向かってゆくのである。
〔登場者名はすべて仮称〕
(つづく)
※記事へのご意見はこちら