明治政府の日英条約改正は1894(明治27)年7月16日に調印された。これをきっかけにイギリス以外の国々との交渉も行なわれ次々と条約の改正が成立した。明治政府発足以来の懸案がようやく解決して、日本は後顧の憂いなく戦争に突入する体勢が整った。日英条約締結後のわずか9日後、日本艦隊と清国艦隊は朝鮮半島西部の豊島沖で海戦して日本軍が圧勝した。この勝利の勢いを駆って日本が清国に宣戦布告したのは8月1日である。戦は朝鮮政府の悪政を正し清国からの独立を助けるという名目だったが、本当の目的は朝鮮を保護国にすることだった。
海に陸に破竹の快進撃を続けた日本軍は、翌年の1855(明治28)年2月、清国が誇る北洋艦隊に壊滅的な打撃を与え、提督 丁汝昌が降伏してついに勝負は決した。清国は3月18日、アメリカ公使を通じ季鴻章を全権大使として講和を申し入れ、その年の4月には下関で日清講和条約が締結された。この下関条約の結果、日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を領有することになった。この結果に重大な関心を持ったのがロシアである。国土に不凍港を持たないロシアは歴史的に海を求めて南進する政策をとってきたが、極東アジアの権益を求めて海に進出するためには、どうしても遼東半島の先端にあって黄海の最深部にあたる大連・旅順港を領有しなければならないと考えていた。
ロシアは、「日本による遼東半島は、清国を脅かし朝鮮の独立を有名無実のものとし、極東の平和に重大な脅威を与える」と主張する一方、極東艦隊を増強して一戦も辞さない構えを見せた。ロシアと軍事協定を結んでいたフランスがこれに同調し、かねてから極東に興味を抱いていたドイツも同意した。日本は、イギリスやアメリカに働きかけ撤回を目論んだが、好意的な中立以上の期待は持てなかった。清国との戦いには勝ったものの、まだまだ弱小国の域を出ない日本にロシアと戦う力はなかった。政府は三国の干渉を受け入れるしかなかった。
三国干渉は、戦勝に浮かれていた日本国民に衝撃を与えた。多くの国民は血を流がして獲得した遼東半島を手放すことに納得できなかった。総合雑誌の「太陽」は国民の憤懣を代表して「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と題する一文を掲載した。「三国の好意、必ず報いざるべからず、わが帝國の国民は決して忘恩の民たらざればなり」との内容である。裏読みすれば、「三国の底意は決して忘れない、必ずこの恨みは晴らすぞ」ともとれる。痛みを忘れないために薪の上に寝て(臥薪)、屈辱を胸に刻むために苦い肝を嘗めて(嘗胆)復讐を誓うという中国の故事になぞらえたこの言葉が国家的スローガンとなってロシアを仮想敵国とする軍拡が進められていく。
ロシアは日本に遼東半島を返還させた代償として東清鉄道敷設権を獲得し、1898年には旅順・大連を租借した。かくて、シベリア鉄道の貫通によりモスクワを発して黄海に至る海へのルートは確保された。ドイツは山東半島の膠州湾を、フランスは広州湾を租借した。こうした外国権益の拡大にともない中国庶民の排外意識が高まり、ついには、「扶清滅洋(清国を助けて西洋を滅ぼす)」を掲げた義和団の反乱が起こり、日露戦争へとつながっていく。三国干渉は、まさに日本の軍事大国化への入口だった。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社
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