18世紀のヨーロッパでは、封建主義の崩壊によって国家権力を強化した絶対君主が台頭し覇を競った。中でも中央集権化が遅れていたプロシアでは、1740年、フリードリッヒ二世が即位すると、重商主義によって国内産業を育成、財政を豊かにした上で領土の拡大を意図していた。当時、神聖ローマ帝国と称されたドイツ諸侯連合の中で最大の強国はハプスブルグ家率いるオーストリアだったが、フリードリッヒは、隣接するオーストリア領の鉱工業地帯のシレジア地方に狙いを定めていた。
マリア・テレジアは、神聖ローマ帝国皇帝カール6世の長女である。兄が若くして夭折したところから、早くから後継者と目されていた。カール6世は、自分にもう男子の跡取りが望めないと知ったときから、長女にハプスブルグ家の広大な領地を相続させるために内外に周到な根回しを行っていた。そのためマリア・テレジアの相続に関して障害は起こらなかった。かくして彼女は神聖ローマ帝国の皇后にしてオーストリア女大公の地位に就く。
ところが、就任のその年の12月、突然プロシア軍がオーストリアのシレジア地方に侵入した。フリードリッヒは彼女の王位継承を認め、夫の神聖ローマ帝国皇帝就任を補佐する代わりにシレジアをよこせと強談した。これに対しマリア・テレジアはシレジア防衛の決意を明らかにして、オーストリア承継戦争は始まった。シレジアは簡単に占領され、以後オーストリア軍は苦戦を続ける。各国の思惑が入り乱れ、ヨーロッパ規模になりかけたこの戦争は、結局イギリスの仲介によってシレジアの割譲を条件に和平条約が結ばれ終結した。マリア・テレジアにとってフリードリッヒは生涯許せぬ仇敵となった。
ところが宿敵であるはずのフリードリッヒは、彼女を「ハプスブルグに大いなる男があらわれた。それは1人の女である」と高く評価した。これには裏話がある。フリードリッヒの王子時代、マリア・テレジアとの結婚話が持ち上がったことがある。彼はひそかにウイーンを訪れ彼女に好意を抱いて結婚を望んだという。しかし、そのころ初恋の人フランツ・シュテファンに夢中だった彼女にこの話は届かなかった。マリア・テレジアへの想いが消えなかったのか、フリードリッヒのその後の結婚生活は破綻した。一方、マリア・テレジアは初恋の人と終世変わらぬ愛を貫いた。
フリードリッヒは、フランスの哲学者ヴォルテールに師事していた。フランス啓蒙思想の巨星の影響を色濃く受けたフリードリッヒは、自分の政治思想を「反マキャヴェリ」という論文にまとめた。マキャヴェリの代表的著作「君主論」をこの世で一番危険な書物と断罪した。君主の行動基準を、善悪ではなく有効か否かに求めたマキャヴェリに対し、フリードリッヒは、君主の行動基準を人民の幸福に求めた。「君主は人民の第一の僕」という言葉を残したフリードリッヒは後世、啓蒙専制君主と呼ばれた。
マリア・テレジアは、父カール六世の死の直後勃発したシレジア戦争では、喪服を軍服に着替え戦線の指揮をとり不利な戦を戦い抜いた。為政者としても有能だった彼女は、オーストリアを強国にすべく、さまざまな改革を行った。軍制においては徴兵制度を整備し、農民出身者にも給料を支給した。生活の安定を保証された兵士たちによってオーストリアの軍事力は格段に上がった。また軍服のデザインを刷新し、勲章制度を創設した。号令よりもシャレた軍服のほうが人をよく動かし、年金付きの勲章のためなら命を捨てもかまわないと思うことをよく知っていたのである。他国に先駆けて全土に均一の小学校を新設し義務教育制度を確立して、国民の知的水準の向上に資したことも彼女の大いなる功績である。
その後プロシアとの間で再発した7年戦争では、オーストリア軍は終始優勢に戦いを進めたが、フリードリッヒの粘りによって戦争は長引き財政負担が重くのしかかる。その後オーストリア軍が敗退したのを機に、マリア・テレジアはシレジア奪回を断念した。戦後、官僚たちの間に啓蒙思想が普及するにつれ、彼女自身は次第に保守化していく。死去した夫フランツの跡を継いで帝位についた息子ヨーゼフの急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立した。晩年は、「この帝国が性急な息子のために崩壊するのではないか」という心配で夜も日もないマリアだった。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社
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