平成13年1月、現職の総務企画局長が収賄で逮捕されるという福岡市役所を揺るがす大変ショッキングな事件が起こりました。開発行政をめぐる談合体質や公務員の倫理が厳しく問われるものでした。
綱紀の粛正のみにとどまらず、抜本的な体質改善の必要性を感じた当時の山崎市長は、同年2月に新進気鋭の若手財務官僚の渡部晶氏を総務企画局長として招聘しました。
福岡市役所に着任した渡部氏は、直ちに「情報公開度日本一を目指す」と市役所内部に宣言し、徹底した情報公開に対する強い決意と覚悟を示しました。
当時、情報公開室の担当係長だった私は、正直なところ戸惑いました。なぜなら、それまでの福岡市役所は、情報公開にそれほど熱心ではなく、情報公開室の市職員は私を含めてわずか4名しかいない状態だったからです。そこで、ちょうどその時期に昭和63年に制定した旧情報公開条例を全面改正する準備が始まったばかりでしたので、少々失礼かなと思いましたが、私は渡部氏に「福岡市役所は、これまで情報公開にそんなに熱心ではありませんでした。市議会も同様に情報公開に理解があるわけではありません。日本一の情報公開条例を作れと言うなら一生懸命頑張りますが、あとになって、二階に上げて梯子を外されるようなことがあれば、情報公開室の職員としてこれほど辛いことはありません」と正直に胸の内を打ち明けました。
すると渡部氏は「情報公開の推進は市長公約だよ!!責任はすべて私が負うから、改革につきまとうしがらみは意識せず、情報公開審査会や市民の意見をしっかりと踏まえて、事務局として日本一として恥ずかしくない内容の条例案を作ることが大事だ!!」と熱い口調で強い決意と覚悟を示してくれました。私は深く感銘を受け、その瞬間「よし、たとえ市役所をクビになってもやるぞ!!」と本気で決意しました。
こうして日本一の情報公開条例をつくるという大仕事が始まりました。
具体的なプロセスは、平成13年3月に当時の山崎市長から福岡市情報公開審査会へ新条例の内容について諮問し、審査会では報道機関や市民の傍聴のもと、公開された8回の審議が行われ、同年12月に市長へ答申がなされました。また、会議資料や議事録はすべて市のホームページなどにより公表され、さらに審査会は、審議の途中でパブリック・コメントを行ない、提案された市民の意見を可能な限り答申へ反映することを目指しました。
このように制度のフレームワークを審議する附属機関の会議が、最初から最後まで報道機関や市民に公開されるだけでなく、その附属機関自身が市民ニーズを把握するためにパブリック・コメントを実施するというようなことは、福岡市役所で初めての出来事でした。当時私は、情報公開室の仲間たちとともに審査会の事務局を勤め、毎日深夜まで仕事に追われていましたが、初めてのことへ挑戦する喜びも感じていました。
≪ 第8回「『聖域』ある改革の限界」 | 第10回「市民を主役にした情報公開」 ≫
<プロフィール>
寺島 浩幸 (てらしま ひろゆき)
福岡県立修猷館高校、福岡大学法学部法律学科を卒業。1987年に福岡市役所入庁後、総務局法制課、人事委員会任用課、情報公開室係長、市長室経営補佐係長、議会事務局法制
係長などを歴任し、2010年8月に退職。在職中は、主に法律関係の職務に従事するとともに、市長直属の特命業務や議員提案条例の支援を担当するなど、市長部局と議会事務局の双方の中枢業務を経験。
現在は、行政書士事務所を開業して市民の身近な問題の解決をサポートするとともに、地域主権の要となる地方議会の機能強化を目指し、議員提案条例アドバイザーとしても活動中。
<主な実績>
・日本初の協定方式による第3セクターの情報公開制度の条例化
・日本初のPFI事業(タラソ福岡)の破綻再生
・日本初の「移動権(交通権)」の理念に立脚した議員提案条例の制定支援
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