バブル崩壊から失われた10年へと続いた不況。リーマンショックに端を発する金融危機。脱却の見込みのないデフレ。増加を続ける失業者数。日本経済を取り巻く環境は厳しさを増している。高度経済成長時に見られたような「モノがないことによるハングリー精神」はすでになく、不況不況と言われながらも物があふれる異常事態が現在なのである。将来への不安が積もるばかりで夢を見ることができない。そんな時代にあって夢を追い続けている人が、ここ福岡にいる。その人は、あるときはマスコミに叩かれ、またあるときは嘘つき呼ばわりされて、それでもなお夢を追い、その夢が実現できると心の底から信じている。日本トレイド株式会社の山崎和則社長である。
「パラマウントピクチャーの映画テーマパークを福岡に誘致する!」
このキーワードを挙げれば山崎氏のことを思い出す方も多くいらっしゃることと思う。2000年からパラマウント誘致のための調査を始めて、2004年に久山誘致案を発表、紆余曲折の末に地権者組合の解散、マスコミ報道の事実上の「打ち切り」。これによって「一連のパラマウント福岡誘致関連事案は終息した」と多くの市民は落胆とやっぱりだめだったかという気持ちを半ばにしたものと思う。けれども、事実はそう簡単に落ち着いてはいない。実は今も、山崎氏は誘致のために孤軍奮闘しているのである。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と言います。私はこの言葉のとおり、すべてをなげうつ覚悟をもって、福岡の将来のためになる事業を実現するつもりです。実現できないことを言っているのではありません。実現可能で、かつ福岡の発展に大いに寄与できるものになると確信しています」
こういっては語弊があるかも知れないが、福岡は小さな独立国家の首都のようなものだ。東京や大阪からの進出にもおびえる地元財界にとって、太平洋の向うとの折衝など、考えも及ばないのかも知れない。都市の規模が足りないのではないか、資金が用意できないのではないか、運用がうまくいかないのではないか。多くのリスクが頭をよぎるのは仕方がない。加えて壮大すぎる事業構想、これは余人には(筆をとっている私も含めて)完全に理解し、実現として想像することは難しい。しかし、それは山崎氏も承知の上でこの案件は実現できるとしているのである。山崎氏の福岡浮揚構想と経緯をシリーズでレポートする。
【柳 茂嘉】
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