中村 『中洲通信』は、自分の小遣いでやり始めたんですよね。
藤堂 7、8年お店をした時に1千万円貯まったからね。それで何をしようかと思って、指輪買ったって、着物買ったって、残らないし。「よし、じゃあ売名行為をしよう!」と。税金払ったって自分のためになることをせないかんと思って。でも、最初の出版手伝ってくれた人から「本はね、絶対赤字ぞ」と言われたの。それでもあたしは「いいよ、1年間でこの1千万円を使い切ったら終わる」と言って始めたけど、やっぱり編集長って呼び名ってかっこいいじゃない? その肩書きにほだされて、そして何カ月か休んで、すぐ再開したわけ。
中村 あれはすごかったですよ。中身がまた、えらく濃かったですねえ。
藤堂 あのね、「どうせ売れないんだから遊ぼうよ」ということで。遊びきれなかった製作会社は切っていったの。それで今の製作会社のオーナーが、まあ、20代から50代まで、いろんな人を集めて、最初の頃にどんどんディスカッションをして。それで、話題になった時代が1960年代なんです。日本が復興しだした頃ね。
中村 一番良かった時期だよね、オリンピックの後で。
藤堂 そう、美智子さんが結婚をして、ケネディ大統領が殺されて。いろんなことが60年代であったのよね。その頃の話をやろうかということから、「人生こんなに楽しくていいじゃないか」ということでやりだしたの。
中村 30年でピリオドを打ったのは、僕としては残念なことだったけど。あれは何で?
藤堂 あれはね、ピリオドじゃなくて、自分自身ね、区切りを付けたわけ。それからかっこつけたかったというより、あたし今までパーティを1回もしたことがなかったんです。1周年も10周年もしなかった。周年記念をしたことがないの。ここ10年、自分の誕生日にはね、お客さんに飲んでもらうために誕生パーティってここ(ロイヤルボックス)でやっているけど。まあ、自信がなかったのね。ホテルなんかでしてさ、お客さん来んしゃれんかったら、どうしようかとか。
でも今回は、『親子三代ママ稼業』って本をずっと執筆しているときにね。手嶋龍一さんが30年来の友達なのよ、彼が『スギハラ・ダラー』のサイン会を福岡でやるときにあたしが人集めを仕切ったわけ。3日前に言われたけど、まあ200人くらい警固の喫茶店に集めたんです。
中村 ああ、それで(休刊前の)最後の表紙が手嶋さんだったわけ?
藤堂 そうそう。それで、手嶋さんがその時に「和子さん、パーティやろうよ」って言ったの。「嫌よ、だって忙しい」と断ったら、手嶋さんが「大丈夫。だって考えてごらん。この30年、40年で、和子さんのブレーンはみんな東京にいるじゃないか。僕だって、和子さんがやるんだったら絶対協力する」と言うわけ。
一番の協力は、手嶋さんが仲良しだった帝国ホテルの小林社長に会わせていただいたことです。まだするとは決まっていないんだけど、手嶋流の強引なアレでさ、それで日にちが10月5日だったらなんとか会場を使えるようにしますと。5月にそれが決まったのかな。
中村 そうしたら2,200人来たわけだ。
藤堂 8月に第一陣の案内状を出したんですよ。帰ってきたら出席と欠席が6対4の割合で。ありがたいのは欠席の返事でも「和ちゃん、今回は海外出張が入っていてどうしても行けないけど、必ず代わりに誰かを行かせるから」とあって、ただ普通に「欠席します」というのじゃない。それだけで嬉しくて、コピーして大事に保管しています。
パーティでは500枚くらい、あたしたちが案内状を出した人ではない名刺があって、それは連れて来られた人なんです。だから2,200人のうち500は知らない人なんです。
中村 そして、それが終わって区切りがついた。また再開するというのはどういうこと?
藤堂 本当は今までみたいにやる気はなかったんだけど、もうすぐパーティのDVDができてくるんです。それでやはり、これは本に残したいと。10月にやったパーティの様子だけを本にしようと思い、『LB』でやったんですよ。そうしたら、毎月はやりたくないけど、季刊誌を作ろうという気になって、春夏秋冬発刊される季刊誌『LB中洲通信』が決定したんです。
【文・構成:長丘 萬月】
中村 もとき (なかむら もとき)
1941年7月10日、福岡市生まれ。西南学院大学商学部卒。大卒後、RKB毎日放送に入社。若者向け深夜ラジオ番組、夕方のワイド番組などで人気を集めた。RKB退社後、フリーとなり、99年4月よりKBCの「中村もときの通勤ラジオ」のメインパーソナリティーとなった。通勤ラジオ終了後は、アナウンサー時代から数々のコンテストに入賞した腕前を持つ写真業を本格化させる。
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