<覚えることが次につながる>
中村 もうひとつ聞きたいのはね。これだけ「不況だ、不況だ」っていうのに、なんで藤堂さんのところはお客さんがいっぱいいるわけ?
藤堂 あんまり強制的に女の子に「お客さんを呼びなさい」と言わないんだけど、それはあたしが40年やってきて、昔はお金がなかった人がいっぱいいるんですよね。でも、ない頃に、あたしなりでおごっちゃったり、サービスしてあげたりしてた人が、今上手くいって社長になったとか、えらくなったとか。それで今、「あん時の借りば返す」とね。
こういう人もいるんですよ。30年前に8万円の掛けがあってお客さんがね、「和ちゃん、残っとったよね」と聞いてきたんです。それであたしが「あんたくさ、たいがいしんしゃいよ。30年前の8万円って、今の200万円以上よ」って。そしたら「そげん言わんで8万円だけ返さして」とくるから、「そげんとはいらんけん。どんどんお客さんば送ってよ」ってね(笑)。
中村 藤堂さんのことだから、若い時に種まいているという意識はなかったと思うね。結果として種になっているわけよね。そう僕は思う。
藤堂 なんかほら、何十年前か会った人でもこうやって親しくお話ができる。お客さんも「いやあ、久しぶり」って言われたら、「えーっ、本当に覚えてる?」って驚くけど。「覚えてるよ、リンドバーグに20年以上に来た」と言ったら、「いやあ、僕はねロイヤルボックスは知らないけど、本店には1、2度行ったことがある」って連れて来られたお客さんに話すんだって。それで「やせたね~」って言えば、たいがい当たっている。昔来た時のイメージがね。
中村 中洲のママってどこも共通して、よく人を覚えていますね。これはすごいね。
藤堂 だってそれがお金だもん。お顔を覚えること、名前を覚えることが次につながるじゃないですか。
中村 私的なことで恐縮なんですけど、私なんかロイヤルボックスに来るような身分でもないから、自分で来るっちゅうことはまずないわけよ。ここに何度か来たのはお客さんに連れてきてもらっている。そういう意味では、藤堂ママにとって上客でないはずなのに、街で会っても、こうして仕事で来てもね。覚えていただいていて、ツーカーで話せるじゃないですか。こりゃ、すごいなと思う。いつも。
藤堂 あたしどっちかと言ったら、ほら、ちゃらんぽらんやから、あまりかっこつけないから、入りやすいんじゃないかな。でも、やっぱり出しゃばっているって言われたら、たしかにね。本作ったり、いろんなことしたりしているから、嫌われている人もいるかもしれないけど。あたしもずい分悩んだことがあってね。「何でうちには地場の人が少ないと?」って、ある人に言ったら、「バカ、お前ね。地場が多かろうが少なかろうが、今の商売が生きているってことはいいじゃないか」って。そりゃそうよね。
あんまりこの頃は思わなくなったけど。あたしはクラブ出身じゃないじゃないですか。よくお客さんから、ロイヤルボックスをあたしが始めた頃に「ママはどこ出身?」と聞かれるんですよ。それで「博多出身」と答えると、「いやいや、お店だよ。薊? みつばち?」って。ああやはり、そういうのってあるのかなあと思いました。
それが20年近く経った今、うちの女の子たちが、たとえば、どっかのお店に移ったり、お店をしたりして、県外に行くようになりました。それで特に東京に多いんだけど、「ロイヤルボックスにいました」と言えば、「えーっ、藤堂ちゃんのとこいたの」と、すぐお客さんが携帯を取り出す。すると「あたし、3日いただけです」って(笑)。
でも、あたしとして「嬉しいなあ」と思うのは、たった1日、3日いる子たちが、大阪、東京とかいろんなところ行って、「ロイヤルボックスにいました」ってね、言ってくれること。たいていはよその店に3年も4年もいるんですよ。うちには1カ月か2カ月だったかもしれないけど、それだけ東京では店の名前が売れているんですよね。たとえば、面接に行って、「ロイヤルボックスから来ました。そんなに長くはないですけど」と言えば、「ああ、藤堂ママのところだから教育が行き届いているんでしょうね」となるんです。
【文・構成:長丘 萬月】
中村 もとき (なかむら もとき)
1941年7月10日、福岡市生まれ。西南学院大学商学部卒。大卒後、RKB毎日放送に入社。若者向け深夜ラジオ番組、夕方のワイド番組などで人気を集めた。RKB退社後、フリーとなり、99年4月よりKBCの「中村もときの通勤ラジオ」のメインパーソナリティーとなった。通勤ラジオ終了後は、アナウンサー時代から数々のコンテストに入賞した腕前を持つ写真業を本格化させる。
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