声を上げたのは、当時の久山町長・佐伯勝重氏だった。連絡の後、正式なオファーとして町長の署名入りの文書で久山町の売り込みを開始した。丁寧にも日本語と英語の両方でアプローチしている点を見ても、本気だということが理解できる。これがアイランドシティ案から久山案への移行の始まりだった。
博多港開発側から山崎氏に依頼されたのはアイランドシティにパラマウント映画のテーマパークを持ってくることだった。けれども、プロジェクトの規模の大きさから、万が一の備えとして腹案として山崎氏は依頼を受けた当初から久山町の案を考えていた。それを聞いてか久山町が先手を打って動き始めたのである。2002年のことだった。
その頃、アイランドシティは「ケヤキ・庭石問題」で揺れに揺れていた。アイランドシティはパラマウントどころではなくなった、というのが当時の様子だったと思われる。そこに久山町が名乗りを上げてくれたのだ。すでに先行投資も含めて実現に向けて動き始めていた山崎氏にとっては、まさに救いの船だったに違いない。
山崎氏は早速、久山町での実現へ向けて動き始めた。誘致させるための土地をまわり、地権者たち一人ひとりに説明してまわる。説明会も実施した。自分だけでは信用が足りなかろうと、2004年には東京の大手建設会社や地場の大手メーカーなど10社を巻き込み、研究会も発足させた。地元の人々も、最初は「遊休地が活用できるのなら」「町の将来に役立てるなら」と積極的ではないものの土地の提供に同意していった。
いよいよこれから、だった。最初の一歩を踏み出すはずだった。土地の整備計画を具体化して、米国側と話を煮詰めていくことができる段階に来ているはずだった。2004年、誘致に前向きだった佐伯久山町長が任期満了に伴い退いた。これが「今思うと」最初のドミノだったようだ。
「町長が代わり、風向きが少し変化したように感じました。これまで町としては自分から申し出た手前、積極的な立場にいたのですが、町長が代わったことにより、より慎重な姿勢になったのです」と、山崎氏は回顧する。
大きなプロジェクトである。慎重に慎重を重ねるのは当然の気持ちであろう。そして、いつしか慎重は疑念に代わり、疑念は反対姿勢へと代わっていくのである。
【柳 茂嘉】
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