東日本大震災発生後、各メディアがこぞって冷静な態度を保つ被災者の様子を報じる一方、現地からは被災地の治安悪化に関する情報ももたらされた。先行きが見えない極限状態での生活は、想像を絶する精神的ストレスを生む。以下、被災地でボランティア活動を行なうNET-IB特派員のリポートである。
<当時は話したくもなかった>
仙台駅から石巻市のボランティアセンターに向かうバスの道中、隣の席に座った専門学生(18歳男性)のBさんが被災当時の様子を語った。
Bさんは宮城県東松島市矢本町に住んでおり、自宅で被災した。自宅がオール電化だったため、津波の影響で断水、停電した際には打つ手がなく「電気も水もない状況でどうすれば良いのか、わからなかった」という。3月の宮城県は、0度程度まで冷え込んだが、暖房も使えず、あるのは石油ストーブひとつのみ。朝と昼は、石油の消費を抑えるために使用せず、夜だけ石油ストーブを使う生活だった。「石油ストーブや懐中電灯のようなアナログなものしか役に立たなかった。携帯電話はずっと使えないし、携帯でテレビを見たらすぐに充電が切れるので情報もなかった」と、震災直後を振り返った。
その後、Bさんとその家族に"飢えへの恐怖"が訪れた。「自宅にある食料を家族6人で分けてしのいでいました。震災から2日目には食料がなくなり、何も食べずに1日が経過した。とても不安でした。スーパーが食料を売り始めたのは震災から3日経ってから。2時間以上並んでも、ひとりでポテトチップス3袋と500mlのジュース2本までしか買えませんでした」という。
治安悪化への恐怖もあった。津波で流されてきた車や放置されている車のタンクからガソリンが抜かれ、自分の車を走らせるために使われているという話や石油ストーブを使うために石油が盗まれているという話などが、近所でまことしやかに話されていたという。
「実際、かなりの数の車は、ガソリンが抜かれていました。自動車に詳しい人が、やっていたという話で、別にプロっぽい感じはしませんでした。ただ、あの頃は『こんな状況だし、仕方ないのかな』と思っていたけど、今考えるとあのときは異常だった。感覚が麻痺していた」(Bさん)。
停電の影響で、監視カメラが作動せず、コンビニ強盗や窃盗も横行していたという。
「仙台など、都会のほうは治安が良かったのかもしれないけど、こっちは本当にひどかった。周りは家がなくなり、死体もたくさん見つかるし、泥棒や強盗もいるんですから。今だから話しても良いかなという気になりますけど、当時は話したくもなかった。生きるためには何をしても良いと考えていた人も一部には絶対いたと思います。今は、治安が良くなってきたけど、当時は本当に怖かったです」と語るBさん。その表情は、とても寂しそうに見えた。
【特派員:中山 俊輔】
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