ライオンズクラブ337-A地区 次期ガバナー 井上 勉 氏
<人の温かさで独立後軌道に乗せる>
―1980年にライオンズクラブに入会された井上さんは、ボランティア活動を熱心に取り組まれていらっしゃいますが、どのような生い立ちがその情熱を生んだのですか。
井上 私は両親が岡山出身で、戦後の「産めよ増やせよ」の時代に10人兄妹の8番目として生まれました。私が生まれたときには、すでに半分が病気で亡くなり、45年の終戦時には5人兄妹になってしまいました。小学4年生の頃、母も亡くなり兄妹5人は父の手で育てられました。父は元来公務員で手漉き和紙の技能士として各地で技術指導をしていたようですが、私が誕生後の太平洋戦争開戦前に役所を辞め、熊本の田舎に住居を構えて家業として手漉き和紙の製造を始めたようです。田舎に住むことにした理由は、和紙の原料である楮(こうぞ)の調達が容易だったからです。
―楮というのは、樹木ですね。
井上 はい。蚕が食べる桑の仲間です。楮が豊富にあるからということで、田舎に住むことになったということですね。しばらくは和紙の需要も旺盛でしたが、母が亡くなった頃から戦後復興の輸入物資が市場に出回り始めて、旧来の和紙の市場が狭くなっていきました。障子も和紙から洋紙に代わり、我が家には真冬が到来です。収入が激減し、生活が脅かされる困窮生活を送ることになってしまいました。家計を支えるために兄姉たちは学校卒業と同時に働きに出て援助を繰り返し、一方の私は細々と家業も続けながらの中学生活でした。手漉き和紙は真冬だけしか仕事ができません。稼げる者全員で支える日々が続き、高校卒業頃には家業もいよいよ立ち行かなくなり、親の面倒を兄妹全員で見ることになりました。そこで私は福岡にやってきました。それが59(昭和34)年頃のことです。
―そしてサラリーマンになったのですね。
井上 はい。日之出水道機器でお世話になりました。そのうち、親の援助を繰り返していた兄姉たちにも自分の家庭ができ、私が父の面倒を主に見ることになりました。サラリーマンでは金銭的に世話が充分にできないと考え、27歳のとき、独立を決意しました。その際、浦上社長ご夫妻に大変お世話になり、取引もしていただいたおかげで社を軌道に乗せることができました。困窮生活時代に手を差し伸べていただいた恩義は、忘れられないものです。
40歳になった頃、福祉への関心を強く持っていたこともあり、友人の誘いでライオンズクラブに入会をしました。
―多くの苦労があったのですね。より良い社会にしたいという思いが、そこで育ったのかもしれませんね。
【文・構成:柳 茂嘉】
<プロフィール>
井上 勉(いのうえ・つとむ)
1939年11月、岡山県生まれ。貧しい幼少期を経てサラリーマンになり27歳で独立。西部化成㈱を設立する。40歳を超えてライオンズクラブに入会。リジョン・チェアパーソン、ゾーン・チェアパーソン、地区委員長などを歴任し、今年7月から337-A地区ガバナーに就任予定。趣味は旅行。
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