「柳川市民は自民党から民主党にシフトしたのか?」について論じる前に、改めて江口氏の敗因をおさらいしてみよう。既報の通り、江口氏の敗因は自ら招いたものであった。
江口氏はホームページすらもっておらず、自らの考えや主張、県議会で何をなしたのかなどを広く県民や有権者に伝える手段すら放棄していたとさえ言えるだろう。また多くの人々の前で自らの所信を表明することでは、今回の選挙戦において椛島氏に大幅に立ち遅れていた。たとえばいちばん人が集中する西鉄柳川駅前での朝立ちは、告示後を過ぎてから数日後であった。ここにも江口氏自身の政治家としての資質と戦闘意欲の低下を見て取ることができる。
さて、今回の県議選で柳川市民は民主党にシフトしたのであろうか。言い換えるならば自民党よりも民主党を選択したと言えるのだろうか。
数字を見てみると、県議選では、椛島氏1万8.445票(得票率58%)、江口氏1万3.354票(同42%)。直近の選挙である昨年(2010年)7月の参院選において、柳川市では、自民党候補者1万4.261票(55.4%)、民主党候補者は2名で1万1.478票(44.6%)であった。
また、政権交代となった09年の総選挙では、自民党・古賀誠氏2万7.668票(61.66%)、民主党・野田国義氏1万7.202票(38.33%)。福岡7区全体で約2万4,000票の差をつけた古賀氏が、柳川市では実に1万票の差をつけた。同市では、古賀氏が野田氏に完勝したといっていいだろう。
今回の県議選で、江口氏に投じられた票は、総選挙で古賀氏が得た票の半分にも満たないことがわかる。本来、自民党支持者の票が江口氏に流れていないということだ。一方の椛島氏は、野田氏が得た票に約1.200票上積みしたことになる。得票率を見れば、総選挙と県議選の結果が全く逆転し、市民は民主党を選択したかのように見える。
しかし、結論から言えば、そうではなく、自民党の自壊、敗北であり、民主党の勝利ではない。今回の選挙は、「民自対決」の選挙にはならなかったからだ(椛島氏は無所属、市民党を名乗っていた)。
柳川の政治的流動化は今から始まるだろう。ただし、流動化が劇的に起きるかどうかは民主党の動きにかかっている。それはなぜか。柳川自体はもともと保守的な政治風土をもっていた。かつては農政連が大きな力を有していた時期もあったほどだ。この保守風土は、地縁・血縁、義理と人情、そして細かな利害関係などによる人間関係で作られていた。そして、その頂点に立つのは、それらの調整能力に長けた人物である。いわゆるイデオロギーとしての自民党が信認されていたというわけではない。(柳川市の場合は、市議会の元議長がその頂点であった。今回の選挙の場合は、古賀氏→江口氏→元議長という流れで選挙が戦われたとは必ずしも言えない。江口氏自身が市議会の保守派を強固に束ねて手足のように動かしてきたわけではない、いわゆる「江口派」そのものをつくってきてはいなかったことも敗因のひとつともいえるかもしれない。)
上記のような政治的人間関係は固定的なものではなく、流動的なものである。それが何かの選挙の際、水面に投げた小石で一気の大きな波紋が拡がるように政治的関係が変化していくものである。その一例が09年4月に行なわれた柳川市長選挙であった。(ちなみにこの選挙では江口氏はどちらにも動かなかった。江口支持者には石田前市長支持、金子現市長支持が混在していたことが背景にある)。
柳川市議会には現在ふたつの会派がある。民主党に近い議員で構成されている会派は必ずしも構成議員全部が民主党ではなく、もうひとつの会派も同様である。ありていに言えば、革新と保守が混在しているといっていい。今回の県議選でも、椛島氏を応援している市議が、古賀誠国政報告会に公然と登壇しているのである。いわゆる「面従腹背」である。福岡市や近接の都市、あるいは旧産炭地の市や町を除けば、「公明」「共産」は別として無所属として議員にいることがいちばん都合がよいのである。
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