<決別の代償>
私は、お金がかかる選挙に決別していた。しかし、その代償はきつかった。たとえば、Aさんと会い、ひと通り話をして帰途に就く。その後、Aさんに会うようにとアドバイスをくれた方へお礼の挨拶に行った。すると、「いくら払った?」と聞かれた。意味が分からなかった。
「出してないのか。それで機嫌が悪かったんだ」
「私はそんなにお金を持っていません」
「君はどうやって票をまとめるんだ! 宗教じゃないんだよ。今、君のやっているやり方で当選したら浜武教だよ。あり得ない!」
お金の名目は車代、交通費とのことだったが、いま思えば飲み食いのお金だったのかもしれない。すすめられたリストには地域に顔が広く、いつもお世話を事欠かない方たちが名を連ねていた。
それから間もなくして、「次の市議選に出る浜武は、会ってみた人の話によると礼儀を知らない横着者だった、そうですよ」
「浜武のチラシを見たが、言っていることは実現不可能。勉強はできる様だが空理空論」などという話が広まった。
私の親戚がタクシーの運転手からご教示され、心配して、飛んできた(私の母親の兄で、あまりの風評に激怒するあまり、母が軽い脳梗塞になって見舞いに来た時の話である)。
筑紫野市の選挙は、"浄化されていた"はずだった。
私は、あえなく落選した。しかし、下馬評を覆し、次々点だった。それからは、門前で拒否されることもなくなった。「浜武さんは頑張っている」と、見も知らずの人にほめられるようにもなった。
「浜武さんは、聞いた話とまったく違うね」と、いわれもした。
次の市議選は当選。票は倍増した。 もちろん、飲み食いもなく、事務所なし、自転車での選挙戦だった。「あいさつがない」とのアドバイスをする者もいなくなった。多分、お金を払わないことを前回の選挙で立証したからだ。
それから10年以上が過ぎた。私よりも若い候補者が当選し始め、最早、事務所などで飲み食いをさせ、組織のメンテナンスをしなければならない選挙は、筑紫野市では過去の遺物となったと思っていた。そのようななかで有権者を飲食接待(供応)した疑惑に関連した議員辞職が起きたのである。
【浜武 しんいち】
▼関連リンク
・任期は1日 初当選の新人市議が議会初日に辞職~供応の疑いを受け
(筑紫野市)
<プロフィール>
浜武 しんいち (はまたけ しんいち)
1965年10月23日、東京都大田区生まれ。74年、筑紫野市へ転居。84年、東福岡高校卒し、フリーデザイナーとなる。95年、久留米大学法学部を卒業後、政治家を志す。97年、筑紫野市議 落選(次点・626票)。99年、新党さきがけ福岡県支部筑紫野連絡所所長就任。2001年、筑紫野市議 初当選(1,200票)。03年、民主党福岡5区総支部常任幹事および同組織委員長に就任。05年、筑紫野市議 2選(1,581票)。07年2月、民主党福岡県連より除籍。同年4月、衆院福岡2区補選 落選(2,857票)。09年、筑紫野市議 3選(1,328票)。11年1月、筑紫野市長選挙に出馬、3,765票で落選する。
なお、政治活動のほか、理数専門塾(株式会社 FCS数学教室)の主宰、番組制作会社の主幹も務めている。
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