信頼、この言葉の重さを山崎氏は痛感したに違いない。支払うべきは支払い、受け取るべきを受け取るだけでは、勝ち得ることはできない。多くの人にとっての幸福を望める計画であっても、信頼を勝ち得るには足りないのだ。
これまでの実績が足りない、正体不明な会社は信頼できない、この疑念を晴らすために大手の建設会社や地元の有力企業にも働きかけた。それでも足りないのである。大きな計画であればあるほど、多くの人が関わり、それによって多くの意見が出されるのは健全なことだ。ただし、本件の場合、批評・批判ばかりが巷(ちまた)をにぎわせ、それをメディアがおもしろおかしく取り上げた。是非の論争はついに起こらず非難の嵐ばかりが強くなったという点に問題があったのではなかろうか。
山崎氏は真剣に取り組んでいた。これは疑いようのない事実である。そして住民も、行政も真剣に考えたはずだ。ところがさまざまな噂が信用を削りとっていき、その集積によって話の進展が妨げられた。久山町のプロジェクトは地元との信用問題によって終りを告げたのだった。山崎氏もついに交渉をやめることに決めたのだった。
信用を勝ち得るのは難しい。家の下の地盤が弱いと言われてコンクリートを敷く。それでも地震がきたら倒壊の恐れがあると言われて、さらに躯体に補助金具をつける。それでも地下には水脈が走っているから危ないと言われて鉄骨を深く差し込む。それでも、それでも、それでも...。この繰り返しだったのだ。
19世紀の数学者で哲学者でもあるバートランド・ラッセルは自叙伝のなかで似たような寓話を書いている。確実性を信じていると土台の象が揺らいでいるのを知った。それを補強するために象の下に亀を置いたが、それでも揺らぎはおさまらない、と。結局ラッセルは一番確実性の高いと思われる数学においてさえ、すべての疑いをなくすことは叶わないと知ったのだ。確実性を望む地元住民と行政、それに応えようとする山崎氏。どちらが悪いという話ではなく、ただ未来に対する確実は存在しないという真実だけが横たわっていたのである。その結果のプロジェクト破綻。これまでの努力が報われないことを知ったときの山崎氏の挫折感、虚無感はいかばかりだっただろうか。
【柳 茂嘉】