夢とうつつ。その間には見えないけれども誰でも知っている確実な壁がある。夢を実現するということは、その壁を打ち壊すことに成功したということだ。逆に夢を諦めるのは壁の強度を見誤ったからに他ならない。夢を見るのは自由である。心のなかで自由に想定した環境で自由に夢を見る。ここには何の制限もない。
一方で、夢を実現させるのは現実の壁を越えなくてはならないのだから不自由といえる。ヒト・モノ・カネの問題、利と害の調整、心の問題などなど制限は次から次へと生まれてくる。けれども、制限の壁があるからこそ実現させた者には大きな栄誉と尊敬、ときには金が注がれるのだ。
パラマウントとUCLA、両者は世界に冠たる一流どころである。それを福岡に呼ぶことができたなら、あるいは福岡市の大きな発展の礎(いしずえ)になり得るかも知れない。そして、それを誘致した者には栄冠がかぶせられるかも知れない。
だが、山崎氏はそれを望んでいるわけではない。ただ死に瀕している街をよみがえらせたい。それだけのことなのだ。街なんか放置しておけばいい、そのうちよくなる、誰かが何かをやってくれる、こう考える人は多いだろう。けれども、これがもし人だったらどうだろうか。目の前の家族が病気を患い、今にも息を引き取りそうになっている。そして自分はそれを救う薬があることを知っている。ならば、その薬を何とかして手に入れて助けてやろうと思うのは自然なことではなかろうか。
他所なら他人事で構わない。けれども、自分が暮らす街だったら家族も同然である。その街を救うために理由なんかは必要ない。これが山崎氏の考えの根本なのである。ヒト・モノ・カネは、いずれも必要条件ではあり手段でもあるが、それは哲学でも目的ではない。あくまでも街をよくしたい。この目的に対する手段のひとつなのである。
これまで数多くの挫折を味わいながら、今もまだ心は折れていない。したがって海外とのパイプはつながったままである。久山、宗像と日本側の場は変わっていっているが、モノ・目的そのものは変わっていないし、実現可能な状態で維持されている。場所が変わっても一から作りなおす必要がない。これは新たな陣容で他都市における誘致活動をするのに比べて大きな差である。何も生み出していないとささやかれる男・山崎氏は目に見えない信頼関係と計画の地盤をつくり続けていたのである。
【柳 茂嘉】