<誰もが上杉佐一郎先生を尊敬して応援した>
上杉佐一郎先生は1919年4月16日生まれで、96年5月10日にお亡くなりになられている。82年から亡くなる96年までの間、部落解放同盟中央執行委員長の重責をこなしてこられた。小郡市出身という関係もあって、FCを甘木市にオープンしたという説もある。そして、FCの代表・上杉昌也氏(44年生まれ)は、佐一郎先生とは25歳離れた弟になる。昌也氏は京都育ちであるから、福岡とは縁が薄かった。
「FCの事業が単独で342億円強の負債に膨れ上がるまでになったのは、己の力であった」と考えていたのであろうか。当初、FCのゴルフ会員権が売り出されたとき、筆者の周囲の経営者たちが「あの佐一郎先生の弟さんにあたる人がゴルフ場を経営されるそうだ。それならば信用できるであろう」と語っていたことをよく耳にした。うち何人かがメンバーになった。この一例だけでも、佐一郎先生がそれだけ絶大な信頼を有していたという逸話である。昌也氏の心のなかに、「兄貴のお陰で、FC事業をスムーズにオープンまで漕ぎつけられた。兄貴に迷惑をかけないように経営しよう」という固い決意があったかどうかは、不明である。
<親がコケ、子がコケる>
FC社の設立は87(昭和62)年5月である。その3年前の84年2月に、京都市において(株)京都通信機建設工業(KT)が設立されている。同社は、定款の第一にゴルフ場経営が謳われている。つまり、KTの別働隊としての役割がFCであったのだ(子会社の役割)。「子」よりもわずか3年前にしか設立されていないKTが、どうして大躍進できたのか!!それは、89年頃から始まった不動産の値上がりの波に、うまく乗ったということだ。
「地上げビジネス」に成功したのである。『KT』の名前は、京都、大阪の不動産業界では一躍有名になった。多数の地上げに手を染めて、瞬く間に業容を拡大していった。同社は福岡にも進出してきて、不動産転がしでシコタマ儲けた。前述した中央区赤坂にも、ビルを取得した。平成に突入する頃には、不動産の高騰はピークを迎えた。昌也氏が勢いづくのは、よーくわかる。福岡市内でも、坪1,000万円の土地は珍しくなくなっていた。
こういう時代背景のなかでFCのオープン計画がなされたのだから、『超バブルゴルフ場プラン』が練られ、実行された。福岡での『平成第一次バブル』が弾けるのは、90(平成2)年9月である。下り始めた矢先に、FCの開業の運びとなった。バブルが弾けて、親会社KTの業績は急速に悪化した。結果、KTは2006年(平成18年)12月31日株主総会の決議において、解散決議となった(登記は07年(平成19年)1月9日)。「親」がコケたのである。「子」はどうなるのか!!
昌也氏は、「とてもじゃないが、再度の預託返還の要請は無理」と、早い段階で腹をくくっていたのではないか。どうであれ、ゴルフ場の受難はまだ続く。別に福岡センチュリーゴルフ場がなくなっても、大勢には影響はない。昌也さん!!破産に切り換えて不動産売却した方が、配当率は上がるはずですよ!!佐一郎先生は草葉の陰でそのように囁いています。
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