東日本大震災は、曲技飛行隊「ブルーインパルス」が所属する航空自衛隊 松島基地(宮城県東松島市)にも甚大な被害を及ぼした。同隊の7機中6機は、九州新幹線開通記念式典での展示飛行のため芦屋基地(福岡県芦屋町)に来ていたことが幸いし被害を免れた。震災発生から約2カ月半後の5月24日から6月9日まで芦屋基地で震災後初の飛行訓練を行なったブルーインパルスの渡部琢也隊長に、震災を乗り越えて行なう飛行訓練への想いなどについて伺った。
<心配だけれども情報は入ってこないもどかしさ>
―震災発生時は芦屋基地にいらっしゃったときいておりますが、どのような状況でしたか。
渡部隊長(以下、渡部) 3月11日は九州新幹線開通記念式典の展示飛行の予行で博多駅・大博通り上空を飛行して芦屋基地に戻った直後、隊員の家族からかかってきた携帯電話からもれる悲鳴で地震のことを知りました。すぐにテレビをつけてみたら、ものすごい状況になっていて津波警報が出ていたので、それぞれの隊員が家族に高いところに逃げるよう携帯電話で伝えました。松島基地との連絡はまったくとれない状況で、携帯電話もすぐにつながらなくなりました。心配だけれども、なかなか情報が入ってこないもどかしい状況がしばらく続きました。
翌日以降、松島基地との通信回線が一部つながり、芦屋基地で少しずつ情報を収集しました。そして、震災発生から3日後の14日の夕方にC-130輸送機で入間基地(埼玉県狭山市)まで移動し、官用バスに乗り換えて松島基地に15日の朝到着しました。
<家族の安否もわからないまま災害派遣へ>
―震災直後の現地での活動はいかがでしたか。
渡部 松島基地は言葉にできないほどの惨状でした。家族の安否がわからない隊員もいる状況でしたが、基地の復旧活動や災害派遣など、その日その日の作業を精いっぱいやりました。基地の復旧活動としては、増援の人員・器材・物資を運ぶ輸送機が滑走路を使用できる状態にすることを主眼に瓦礫の撤去などを行ないました。災害派遣としては、私自身も市役所での連絡官業務、給水活動、遺体搬送など、いろんなことをしました。隊員は家族と会えず基地内に寝泊りしつつも、国民の安全を守るという自衛隊の使命を胸に活動しました。しばらくたって、ブルーインパルスの隊員と家族が全員無事だったことを知り安心しました。しかし、芦屋基地に駐機している7機が無事に残っていて良かったとまで思えたのは、震災から1カ月以上たち全国から増援部隊約1,000人が来るようになって少し落ち着いてからのことでした。
【文・構成:吉澤 英朗】
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<プロフィール>
渡部 琢也(わたなべ たくや)2等空佐
1967年東京都生まれ(44)。千葉東高等学校を経て、91年防衛大学校(管理学専攻)(神奈川県横須賀市)を卒業し航空自衛隊に入隊。F-15J戦闘機パイロットとなり第8航空団第304飛行隊(福岡県築上町)、指揮幕僚課程(東京都目黒区)、第2航空団第201飛行隊(北海道千歳市)、航空幕僚幹部防衛部防衛課(東京都新宿区)などを経て09年に第4航空団第11飛行隊「ブルーインパルス」(宮城県東松島市)に着任し10年より同隊隊長。
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