<原発危機への覚悟があるのか>
23日、土曜日に弊社の社員の大半が玄海町にある原発の見学に行ってきた。本当に長閑なところである。もし原発が設置されなかったら玄海町の産業は農業・畜産と漁業しかない。平地が少ないから農業用地も狭い。だから農業自営業者も零細規模になる。「原発設置がなければ玄海町は佐賀県一の貧困地帯になる。原発誘致はまさしく玄海町民にとって救世主的存在だ」と、うそぶくのが岸本玄海町長である。
この貧困ゾーンに九電とその後ろ盾の政府(原発推進グループ)が金をばら撒いて原発反対運動を圧殺してきた。もはや玄海町民のほとんどが原発推進派に仕立てられてしまったのではないか。電源三法を背景に税金が交付金として投入され、公共事業(ハコモノ造り)のラッシュになった。その建築現場で働ければ1日1万円以上の日当が得られるため、兼業農家をやっておれば同町では気楽な生活が送れる。不満も出ない。さらに九電様から至れり尽くせりの接待を受ければ住民たちも気分は良好。守旧派になってしまうのは必然の成り行きだ。
この原発推進に投入された莫大な資金に群がる利権の親玉たちの存在がある。それは玄海町長であったり地元のボスたちであったりする。その一例が岸本組であろう。佐賀県知事も抱きこまれ、有力国会議員たちも『飴玉』をシャブらされている。現実の原発利権構造を玄海町民たちは生活の皮膚感覚で充分に理解しているが、不満は抱かない。自分たちの日頃の生活に安住できる環境が整理整頓されているからだ。だが彼らの日常生活の裏で『使用済み核燃料』が処分したくてもされずに放置されていることを御存知ない。いや知っていても考えたくないのだ。砂上の楼閣の上に立って生活をしていることの認識はありながら、すでに福島で起きた原発危機への覚悟から目を逸らしているのである。
<わが生活が繁栄すればよしという我欲>
20年、30年と原発推進の銭のなかに浸って、安閑とした生活してきた玄海町民たちは「今後もこの結構な暮らしぶりは続く、いや続けて貰わないと困る」という思考に固まってしまう。これがまさしく守旧派の典型的な発想だ。筑豊には三代に渡って生活保護費で家計を営んでいる所帯が数多く存在している。これらの人たちは働いて稼ぎ生活を営むという考えることはない。国から生活費を頂戴しているという感覚だ。
福島原発の爆発であらためて原発の安全問題がクローズアップされてきた。玄海原発の周辺市町村では「安全が保証されなければ原発を止めてしまえ」という怒りの声が高まってきている。仮に玄海原発に異常事態が発生したならば一番に被害のでる可能性が高いのは唐津市だ。玄海原発が立地している場所は唐津市(旧呼子町)の瀬戸際のところである。死の灰が吹き出る事態になれば隣接自治体に飛んでいく。玄海町よりも周辺市町村での被害のほうが甚大であることが予想される。玄海町民は「そんなことは知ったことではない」と動揺もしない。しかし、時の流れは原発廃止に向かうだろう。そのなかで玄海町民自らの手による『脱原発で地元自立』を模索するのは、もはや無理だろう。後ろ盾の九電だってどうなるかわからないのだが―。
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