<北九州銀行の誕生までの経緯<13>~山口銀行の北九州への進出(1)>
「北九州銀行」新設する山口FGは、1878(明治11)年に山口銀行として創業。戦後間もない1951年4月、小倉支店、広島支店を同時に開設し初めて県外へ進出した。翌年に東京支店を開設し、以降は県外への支店開設を進めていった。
1963年(昭和38年)、門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市の5市が合併し100万人都市「北九州市」が誕生。政令指定都市となった。
京浜、中京、阪神、北九州の四大工業地帯には都銀を始めとする有力な地元銀行が存在したが、八幡製鐵所など日本有数の製造業を抱える北九州にとって不幸なことは、地元地銀がないことであった。その地元地銀としての役割を担ったのは、日銀北九州支店であった。その後の産業構造の変化とともに北九州市の経済地盤が低下。その存在感は次第に失われ後に支店廃止論が浮上することになるが、当時の日銀北九州支店は、地元地銀としての役割も果たすなどその功績は非常に大きかったと言われている。
50年代当時、全国の地銀でトップの地位を占めていた福岡銀行は、石炭から石油への燃料革命の変化で県の基幹産業であった炭鉱産業の衰退とその不良債権処理や従業員組合のストなども重なり、北九州市への本格的な営業力強化に立ち遅れることになった。
その間隙をついて他の金融機関、すなわち西日本相互銀行、福岡相互銀行(いずれも当時)、山口銀行の北九州進出を許すことになった。
60年代に入りやっと石炭産業の痛手を回復した福岡銀行は、巻き返しを図るため北九州本部を立ち上げると西日本相互銀行、福岡相互銀行(04年西日本銀行と福岡シティ銀行が合併し、現在は西日本シティ銀行)も相次いで北九州本部を立ち上げ、北九州地区の営業強化に乗り出した。
【北山 譲】
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