<小早川との出会い>
フリーランスの立場で仕事をしていた本藤は、小松建設時代の3カ所のゴルフ場開発の経験を活かし、関東で2カ所のゴルフ場を造った。そうして、東京の紀尾井町ビルに事務所を置き、ゴルフ場の開発と会員権販売を手がけることとなった。それは濡れ手に粟と形容するのがふさわしい世界だった。
当時は、地価上昇に伴って値上がりする、という期待感と、だんだん生活が豊かになりサラリーマンにゴルフが広まりつつある時代背景から、ゴルフ会員権も熱狂を持って受け入れられていた。
そこで見たのは、価値の裏づけのない錬金術のような商売だった。
三菱商事の看板を借り、三菱商事がつれてくる政財界の有力者をゴルフ場の理事に据えるだけで、会員権は、ノーブランドのそれと比べて500万円も高く売れた。
このような商売を続けているとどうしても現実から遊離してしまいがちであった。
やがて、仲間のなかに、売る会員権の人数をもっと増やせば、さらに儲かる!というような意見を吐く者が出てきた。しかし、ある一定限度を超えて会員権を売っていけば当然ながら、会員は、プレイの予約ができないこととなり、トラブルになってしまう。
本藤は、やがてこのビジネスに良心の呵責を感じ、このビジネスをある運送会社に譲ることにした。
しばらく引継ぎのため一緒に仕事をしたが、本藤が1千800枚以上売るな、と制止していた会員権を3千も5千も売っていた。が、やはり道理を外れたビジネスは長続きしないもので、本藤がこの会社を譲った後、会員権の乱売は大問題としてマスコミを賑わわせることとなった。
その頃、久山では小早川が、町の土地政策の転換に向けて戦略を練っている最中だった。
小早川は、自らリードして町内全域を市街化調整区域に指定し、乱開発をストップしていた。
しかし、それゆえに、この方針を転換し、商業施設を開発することは県の各部局との折衝や、地権者の取りまとめなど、これまでにない課題に直面することを予期していた。
そういうところに、小早川は、長与町での大規模宅地開発のうわさを聞き、町会議員と担当者を連れて現地を視察に訪れ、開発マンとしての本藤に相談を求めた。1986年2月のことである。
<国際流通ゾーンのとりまとめを>
小早川と会った本藤は、土光臨調会長から、中央に出て臨調の参謀をやらないかと誘われたという小早川に強く惹かれるものを感じた。
健康づくり政策に見られるような先見性。
土地政策に代表されるような行動力。
正直、濡れ手に粟の商売を体験してきた本藤には、久山町は田舎の貧乏町にしか見えなかったが、小早川のリーダーとしての資質には他にないものを感じ、顧問として相談に応じていくことにした。
町を知り、人を知るにつれ、本藤は小早川の意図を汲み、緑を多く残しての健康田園都市、久山町スポーツ公園、メディカルゾーンなどを提案しつつ、開発業者としてそれらプロジェクトの実行に取り組んでいった。
88年には、本藤は、当時のキーワードであった「民活(民間活力)の導入」をテーマとした町づくりを提案、89年から久山町田園都市構想の取りまとめに着手した。
《テーマ》
国土の健康
社会の健康
人間の健康
今も町内にある温泉施設付ホテルのレイクサイド久山や健康チェック施設C&C、ケイマンボール場なども本藤が開発をとりまとめたものだ。これらのプロジェクトを小早川の意図に沿って取りまとめたことにより、本藤は町役場内で、影の助役とまでいわれるようになった。
これらが成功裏に進捗した結果、本藤は小早川より、いよいよ国際流通ゾーンのとりまとめを任されることになった。
【石川 健一】
<プロフィール>
石川 健一 (いしかわ けんいち)
東京出身、1967年生まれ。有名私大経済学卒。大卒後、大手スーパーに入社し、福岡の関連法人にてレジャー関連企業の立ち上げに携わる。その後、上場不動産会社に転職し、経営企画室長から管理担当常務まで務めるがリーマンショックの余波を受け民事再生に直面。倒産処理を終えた今は、前オーナー経営者が新たに設立した不動産会社で再チャレンジに取り組みつつ、原稿執筆活動を行なう。職業上の得意分野は経営計画、組織マネジメント、広報・IR、事業立ち上げ。執筆面での関心分野は、企業再生、組織マネジメント、流通・サービス業、航空・鉄道、近代戦史。
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