「トリアス」というとき、そのオープンの功労者は、表向きは平山敞とされている。
この人は、神戸大学を卒業して草創期のダイエーに入社した人で、ダイエーの取締役、そして子会社であったユニードの社長まで務めた。ところが1991年に、ダイエーがユニードを吸収したのを期にダイエーを飛び出した。
関西弁がトレードマークで、饒舌でとにかく人身掌握術に長けた人物だった。だから平山についていこうとする社員や取引先は多かった。ダイエーが80年代前半の経営危機を、「V革」といわれる経営改革で脱却したことや、ユニードが九州の小売業トップの座を獲得したことは、平山らの成果であるとされている。
一方、ダイエーの創業者であった中内は、一代でわが国最大手の小売業を築いた立志伝中の人物である。
しかし、大変残念なことながら中内は、後継者の育成というところでつまずいてしまった。
その理由にはいろいろあろうが、大きくは、築いたものを人に渡したくないということと、欲しいと思ったものは何としても欲しいということ。このふたつの強い性分が原因であったように思える。このあたりは佐野眞一の『カリスマ』(新潮社)に詳しい。
築いたものを人に渡したくない、という性分は、有能な経営幹部に対する猜疑心となって現れる。中内は、平山の人身掌握力を恐れてか、ユニードの吸収によってその社長から外れる平山に対して、千葉市内の十字屋というダイエーグループの小さな百貨店の社長に押し込もうとした。
これに対し平山は、心機一転、新しい道を進もうと考え、ダイエーを辞め福岡でコンサルタントを開業していた。
何しろ、饒舌な人なので、いろいろと発言はしていたが、ダイエーを飛び出した平山の本意は結局のところ、よくわからない。
しいて言えば、中内の子飼いの幹部たちが、中内の会社私物化傾向の強まりに対してモラルダウンを感じていた時期である。この頃ダイエーからは有力な経営陣が次々と飛び出していたので、その流れに乗った、というところではないだろうか。
後に、中内のもうひとつの性分、すなわち欲しいものは何としても欲しい、という性も、後にトリアスを苦しめることになる。
ともあれ昼は精力的に人と会い、夜は中洲を闊歩する平山に、久山町の広大な敷地のとりまとめがなされようとしている、という情報はすぐに入った。93年頃、平山は、本藤にアポイントを取り付けて、事務所に乗り込んできた。
【石川 健一】
<プロフィール>
石川 健一 (いしかわ けんいち)
東京出身、1967年生まれ。有名私大経済学卒。大卒後、大手スーパーに入社し、福岡の関連法人にてレジャー関連企業の立ち上げに携わる。その後、上場不動産会社に転職し、経営企画室長から管理担当常務まで務めるがリーマンショックの余波を受け民事再生に直面。倒産処理を終えた今は、前オーナー経営者が新たに設立した不動産会社で再チャレンジに取り組みつつ、原稿執筆活動を行なう。職業上の得意分野は経営計画、組織マネジメント、広報・IR、事業立ち上げ。執筆面での関心分野は、企業再生、組織マネジメント、流通・サービス業、航空・鉄道、近代戦史。
※記事へのご意見はこちら