東日本大震災の発生にともなう津波の被害が大きかった宮城県石巻市。同市のなかでもことさら被害が大きかった地域のひとつが石巻市釜谷(かまや)地区である。同地区は各メディアに取り上げられたように多数の児童が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の校区。新北上川(追波川)河口から約5キロに立地しており、これまで津波の被害をほとんど心配されていなかった地域であった。『3月11日』までは――。
同地区に住む、高橋氏(81歳、仮名)は、この地で生まれ、大工の棟梁として地域住民に親しまれてきた。第一線を引退してからは、妻と長男夫婦、そして高校生と小学生の孫と同居していた。地震が起きた時、高橋氏の自宅には高橋氏とその妻、そして春休みで帰省していた孫ら計4名がいた。それから約50分後に津波の第一波が襲ってきた。
3月11日の大地震は、突然起きたかのように思われていることもあるが、実のところ、2011年に入ってから東北地方では震度3~4クラスの地震がたびたび発生していた。「宮城県沖地震」と呼ばれる大地震はこれまで30~40年の周期で繰り返し発生しており、今回の大震災以前には、33年前の1978年(昭和53年)6月12日に発生している。年明けから頻発していた地震は、宮城県沖地震の前触れではないかとささやく人もいたという。
3月11日、78年の宮城県沖地震よりも大きな揺れがきた。しかもその揺れはなかなか収まらなかった。何分続いただろうか分からないが、座っていることもままならない状態であった。幸い、高橋氏の自宅は地震による倒壊は免れたが、家中がめちゃくちゃになった。「あぁ、後片付けが大変だ」と、その時は思ったという。
それから数十分後のこと、「津波が来るぞ!逃げろ!」という近所の人の声がした。海岸から家までは距離があり、自宅まで津波が来ることはないだろうと考えていたが、甘かった。津波によって河口に押し寄せた波は川を逆流させ、堤防が決壊していたのであった。あっと言う間の出来事であった。孫たちには先に走って逃げるよう言い、自分は足の悪い妻を助けようとした正にその時に、轟音と共に押し寄せた水に足元をすくわれた。とっさに目の前にあったカーテンを掴んだ。視線から見えたものは庭木に必死に捕まる高校生の孫だけであった。
【新田 祐介】
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