<小早川町長の挑戦>
トリアス久山は、1964年以来、7期28年を務めた小早川町長の『先見の明』の産物であると言ってよいだろう。
小早川は、典型的な親分肌の人。
福岡高校から九州大学法学部に進んだが、戦争のため海軍経理学校に入学。その後まもなく経理将校として出征し、中国で終戦を迎えた。
中国では漢口に抑留され、若年ながら将校だったので日本兵600人のまとめ役を任された。そこですでにリーダーとしての才覚を発揮している。その後、公職追放とともに久山町で農業に従事、この間に地域のリーダーとして活躍し、55年、町会議員に当選した。その後、町議会議長を経て町長として久山のまちづくりをリードした。
80年代前半に第2次臨時行政調査会の会長を務めた土光敏男は、鈴木首相が掲げた「増税なき財政再建」を達成することを目指し、行財政改革の方向性のとりまとめを行なった。久山と小早川を全国区の存在にしたのは、その土光である。
土光の半生が日本経済新聞の『私の履歴書』欄で紹介されたとき、土光は、その最終日の枠を、久山町の小早川町長の賞賛にあてた。そこには、小早川の久山町政を、我が国がとるべき行財政改革のモデルケースとして位置づけ、自ら手がける臨調を成功に導く一助としようという広報的意図があっただろう。
ともあれこの『私の履歴書』掲載によって福岡の田舎町であった久山の小早川は一躍に名が知られ、その後『久山町長の実験』(大谷健、草思社)という本も出された。本稿も同書を参考とさせていただいた。
<政治体制の変遷>
我が国の政治は、この5年間、毎年首相が変わり、ねじれ国会が与野党逆転した形で再現するなどして混迷を深めている。
この原因はいろいろあるだろうが、簡単に言えば密室合意を得意とする我が国の政治家が、いきなり二大政党制という欧米流の政治体制を与えられ、適応しきれていないのではなかろうか。
94年の選挙制度改革で、従来の、候補者にとって居心地の良い衆議院の中選挙区制が、オセロゲームの白黒が裏返るように与野党の議席数が激しく議席数が変化する小選挙区制と、死に票が少なく民意を忠実にすくい取るが、地元利権的な利益分配による支持者の囲い込みが不可能になる比例代表制に変更されたことが大きいだろう。
この結果、与野党の議席数は選挙のたびに大きくぶれることになった。議員の顔ぶれも、大所高所から考えられる立場の比例代表グループと、これまで以上に必死で地元への利益配分に介入しなければ生きていけない小選挙区グループに分かれたため、国会内での議論の集約も今まで以上に難しくなった。
こうした制度の変更により政界は、大規模政党への集約が進み、50年続いた自民党支配から強制的に二大政党制に意識を切り替えることが求められた。
二大政党制を200年も300年も続けているアメリカやイギリスでは、長年の経験から、二大政党制の弊害を避けるためのある種のルールが定着している。しかし、それまで安穏と与党および野党の座を維持し、その議席数の順位すら入れ替わらなかった中選挙区制の時代に慣れた政治家たちは、そんなに簡単に新しいルールに移行することはできない。
二大政党制を長くやっている国では、仮にウェッジイシュー(与野党で意見が対立する焦点の課題)では与野党が激しくぶつかり合ったとしても、外交や防衛といった長期的・継続的な施策が求められる分野では、与野党とも、そう大きな主張の違いはない。それは、そうしなければ国難には立ち向かっていけない、ということを双方が長年の経験で学習しているわけである。しかし、わが国にはそのような積み重ねがないので、長年政権を担った自民党ですら、下野すると、野党当時の民主党とまったく同じような「何でも反対野党」になってしまっている。
きっと、与野党とも学習し、二大政党制に慣れていくまでに、あと2回か3回の総選挙を経る必要があるだろう。それまでの間に再度の政界再編が巻き起こり、きれいな対立軸が生じるかもしれない。が、ひょっとすると、二大政党対立よりも、戦時中の翼賛体制のようなやり方で、皆で空気を読みながらやっていくほうがいい、というような道を歩むのかもしれない。
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<プロフィール>
石川 健一 (いしかわ けんいち)
東京出身、1967年生まれ。有名私大経済学卒。大卒後、大手スーパーに入社し、福岡の関連法人にてレジャー関連企業の立ち上げに携わる。その後、上場不動産会社に転職し、経営企画室長から管理担当常務まで務めるがリーマンショックの余波を受け民事再生に直面。倒産処理を終えた今は、前オーナー経営者が新たに設立した不動産会社で再チャレンジに取り組みつつ、原稿執筆活動を行なう。職業上の得意分野は経営計画、組織マネジメント、広報・IR、事業立ち上げ。執筆面での関心分野は、企業再生、組織マネジメント、流通・サービス業、航空・鉄道、近代戦史。
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