<一彦氏の最終決断>
1998年8月から専務に就任した八木氏はとくに権限を与えられたわけでもない。プロジェクトマネジャーとしての任務を任されたわけでもなかった。まずは福岡地所の組織の問題点を徹底的に洗い直す作業の予備知識を叩き込むことが仕事と言えば仕事だった。同氏は社員、取引先、一彦氏の交友関係者と付き合い、自分なりの『福岡地所の新時代の対応策』を練っていった。3年間、構想を温めていた矢先に問題が発生した。
四島福岡シティ銀行の前途が警戒水域に突入したのである。銀行には非常に難関な局面に舵取りをできる人材がいない。銀行がおかしくなれば福岡地所にも影響がおよぶ。八木氏を福岡シティに取締役として送り込んだのが、2001年6月であった。ところが福岡シティは周知の通り、西日本銀行に吸収合併されてしまった。そうなれば八木氏はお払い箱である。1年後の02年8月に再び福岡地所の専務取締役に復帰した。
一彦氏にとって叔父が経営する銀行が四島家2代で終焉した事実には予想したといえ狼狽をしたはずだ。また前回、触れたオーナー経営者として一番尊敬していたダイエーの中内経営が破綻の瀬戸際まで追い込まれた事態にもかなりのショックを受けた。「福岡地所を俺の代で終わらせるわけにはいかない。まず抜本的な変革は借入の大幅圧縮だ。拡大・攻撃が俺の得意とするところだが、守りは苦手である。デフェンス経営に徹する人材は俺の周囲を見渡すと八木しかいない」と決断し断行した。八木氏は03年8月に福岡地所の代表取締役社長に就任したのである。
<私の流儀を貫きます>
八木氏も以前から「社長の打診がやってくること」は予測していた。社長就任の要請があった際に八木氏は一彦オーナーに伝えた。「私はいっさい無駄なことはやりません。会社に得にならないことにはまったく関心がありませんから承知してください。私流で貫きます。会社運営に関しては口を挟まないでください」と固い決意を述べたようだ。一彦氏もその申出に異存はない。快諾した。
想定できるシナリオを設定してみよう。榎本氏は一面では情実の人だ。有能であるが、都合で会社を追い出されたAさんがいたとすれば、「おーい、八木社長!!A氏は素晴らしい人物だ。福岡地所に顧問で迎えよう」と相談をする。「榎本会長、お言葉ですが、そのAさんは、はたして顧問として活躍してくれますかね。単に情をかけるような食い扶持与えには反対しますよ」と、明確に反対の意思表明を八木社長は行なう。
このシナリオ設定に近い実例はたくさんあった。八木社長の結論はシンプルだ。「会社にとっての損か得か」の一点で判断する。だから榎本会長には、ひと言も反論の余地がない。八木氏の頑固さにはカチーンと頭にくることもあっただろう。「いや、しばらく待て!!ここでオーナー権力をちらつかせるような安易な動きをしたならば先輩オーナーたち同様の墓穴を掘ることになる。辛抱、辛抱。八木のやることは正攻法で正解だからな」と一彦会長は何時も冷静さを取り戻した。
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