1906(明治39)年頃に建造された「旧伊藤伝右衛門邸」は、かつて「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門(1860~1947)が住んでいた。当初は4分の1程度の規模で決して豪華ではなかったが、伝右衛門が炭鉱経営で財を成すのに歩調を合わせるように、大正初期から昭和初期にかけて数度の増改築が行なわれ、現在の姿に近づいていったという。ちなみに、庭を一望できる2階部分は、後の歌人・柳原白蓮(燁子)を妻として迎え入れたときに建て増しされた。
邸宅は正面の南棟、庭側の北棟、両者を結ぶ角之間・中之間棟、玄関・食堂棟、繋棟の家屋5棟、土蔵3棟から構成される、当時としては珍しい書院風2階建ての近代和風住宅。また、池を配した3,500m2の広大な回遊式庭園に、44種550本の樹木、19基の石灯籠、そして全国各地から集められたという庭石が配置されている。また、高い塀は旧長崎街道に面しており、27(昭和2)年に焼失した福岡市天神町にあった別邸(通称:銅御殿)から移築された長屋門や、伊藤商店の事務所が目を引く。
建物の見所は、和洋折衷の調和のとれた美しさと、当時では先進的な建築技術や装飾。とくに内装は凝っており、応接室に英国製のステンドグラスとマントルピースが設置され、庭に面した窓ガラスはドイツから取り寄せられた。白蓮の求めでつくられたという邸内の水洗トイレは、当時は九州初だったという。
「旧伊藤伝右衛門邸」は、過去に取り壊しの危機に直面したことがある。しかし、市民の保存運動を受けた飯塚市が2006年に約1億5,000万円で購入、07年4月から一般公開を始めた。10年12月には来場客が50万人を突破し、飯塚市を代表する観光地の1つとなった。
そして今年3月、伊藤伝右衛門を正しく評価し直すべく、『漫画 伊藤伝右衛門物語』が講談社より出版された。同書は伝右衛門の半生が描かれたもので、原作の深町純亮氏、脚色の津流木詞朗氏、画の羽月由憲氏の3氏はいずれも地元・飯塚出身。同書の帯には、麻生太郎元首相による「そこそこおもしろい。推薦します」という推薦文も書かれている。
同書巻末のあいさつ文のなかで、製作委員会会長の斎藤浩氏は「伝右衛門をはじめ、筑豊の石炭王たちには、リーダーに必要とされる『人望』『展望力』『判断力』『実行力』それらの資質がすべて備わっておりました。そして、私がとくに彼らに強く感じる共通項は、気迫です」とし、現在の若者や"疲弊"を理由にやる気喪失気味の地方のリーダーたちがこの漫画から何かを学びとってほしい、としている。
地元の歴史・文化を正しく知り、評価することが、地域力ひいては日本力の向上につながるのではないだろうか。
【大根田 康介】
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