東日本大震災の発生にともなう津波の被害が大きかった宮城県石巻市。同市のなかでもことさら被害が大きかった地域のひとつが石巻市釜谷(かまや)地区である。同地区は各メディアに取り上げられたように多数の児童が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の校区。新北上川(追波川)河口から約5キロに立地しており、これまで津波の被害をほとんど心配されていなかった地域であった。『3月11日』までは――。
<前回のつづき>
自宅のカーテンにつかまった高橋氏は、不思議なことにあることを思い出したという。それは高橋氏の幼少時代、規模としては小さいがこの地で津波に襲われた記憶であった。幼少時代に経験した津波は大きな被害を与えなかったため、記憶が薄くなっていたのだろうが、この地域は沿岸部であり、地震が多発する場所だ。津波に襲われる危険性は他の地域よりも高いんだ、という考えに至ったという。
自宅は河口から約5キロほど離れているが、新北上川の堤防は自宅のすぐ裏にあった。自宅裏には逆流した川の水と共に大きな材木が流れついた。両隣の家は完全に流されたが、結果的にはこの材木が水を堰き止めたような形となり高橋氏の自宅は流されなかった。もちろん、1階は浸水し、もう住むことはできない有様となってしまったが―。
ふと我に返った。目の前には庭木につかまっている高校生の孫がいる。すぐに助けに向かった。孫は無事だった。手を貸して妻と小学生の孫を探したが、近くには見当たらない。妻と孫の名前を叫んだ。孫の金切り声がした。眼下を見ると、逆流して押し寄せた水が渦となり、小学生の孫がその渦に呑み込まれていった。だが、渦に呑み込まれた孫が小高い丘の上に打ち上げられたのが見えた。気を失っているようだが、孫は大丈夫だ!と思いすぐさま駆け寄り小学生の孫を抱えた。
丘から自宅方向を見ると凄まじい光景だった。もう自宅に戻り妻を探しに行くことはできない状況であることはすぐに理解できた。妻が遺体となって発見されたのは震災から10日後のことだった。
【新田 祐介】
*記事へのご意見はこちら