東日本大震災の発生にともなう津波の被害が大きかった宮城県石巻市。同市のなかでもことさら被害が大きかった地域のひとつが石巻市釜谷(かまや)地区である。同地区は各メディアに取り上げられたように多数の児童が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の校区。新北上川(追波川)河口から約5キロに立地しており、これまで津波の被害をほとんど心配されていなかった地域であった。『3月11日』までは――。
<前回のつづき>
家は流されずに済んだが、このまま自宅に留まることはできないと考え、いろいろな手段を使い石巻市内に住む次男の家に向かった。道中、目に入る状況は信じられない悲惨なものであり、後ろ髪をひかれる思いがなかったわけではないが、生きるために釜谷地区を後にした。どのくらいかかっただろうか、次男一家が住む石巻市の中心部に入った。ここまで津波がきたのか―。国道に船が打ち上げられているなど想像を絶する光景に、目を覆いたくなった。ここから先は徒歩でしか移動できない。孫たちを引き連れひたすら歩き、高橋氏は次男の家を目指した。
次男の家は無事だったが施錠されたまま。電話は不通、安否確認すらできなかった。途方に暮れていた時、偶然、親類と出会った。高橋氏一家は、その親類の家にお世話になることとなった。
親類の家に泊まった初日、隣で就寝していた高校生の孫が突然悲鳴をあげた。津波で流されている夢を見たのだという。震災発生から5カ月が過ぎた現在でも、孫は夜中にうなされることがある。精神的なダメージを拭えないものかという悩みはいまださいなまれている。
何とか衣食住に事足りた高橋氏一家であるが、心配事が消えたわけではない。というのも、気がかりは釜谷地区に住む親類の安否である。その親類は高橋氏の自宅よりも河口に近い場所に住んでいた。小学生の子供もいる。探しに行きたいが、探す術がなく、歯がゆい思いと申し訳ないと思う気持ちが募るばかりであった。警察や行政からの情報では釜谷地区は壊滅的な状況で、大川小学校の教員と児童の多くが死亡または行方不明と知らされた。しかし、ライフラインが切断されており、テレビもつかず、電話もつながらない状況ではどうすることもできなかった。
【新田 祐介】
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