東日本大震災の発生にともなう津波の被害が大きかった宮城県石巻市。同市のなかでもことさら被害が大きかった地域のひとつが石巻市釜谷(かまや)地区である。同地区は各メディアに取り上げられたように多数の児童が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の校区。新北上川(追波川)河口から約5キロに立地しており、これまで津波の被害をほとんど心配されていなかった地域であった。『3月11日』までは――。
<前回のつづき>
日々あれこれ考えるもこれと言った策がない状況が続くなか、高橋氏の妻と思われる遺体が発見されたとの一報が入った。知人の車に同乗し、遺体安置所へ向かった。布で覆われた遺体が整然と並んでいる光景を見て、足が震えた。ここに50年以上連れ添った妻がいるのかと、まだ半信半疑であった。ただし、心のどこかでは「生きている可能性は少ない、ならば早く見つけて供養することだ」と、思っていた。
あの日、3月11日まで、毎日顔を会わせていた妻が横たわっていた。そして、その姿を目の当たりにすると、不思議とそれまでの足の震えは収まった。
係の人の説明によると、津波で流された人の多くは着衣が脱げ、水を飲み込んでしまうため、体が膨れ上がるという。その遺体を自衛隊員が丁寧に洗ってくれていたようだ。「見つかって良かった」という安堵とともに、捜索してくれた自衛隊員に感謝の気持ちで一杯になった。
ところが、妻の遺体を火葬することができなかった。死亡者が非常に多く、火葬場の稼働が追い付かなかったのだ。これは被災した他の地域でも同様の現象が起きており、また火葬場自体が倒壊した地区もあった。被害の少ない隣県の山形県や秋田県などで火葬をする案も浮上したが、結局、一旦土葬して、時期が来たら掘り起こして火葬を実施することとなった。
土葬した場所は、妻の実家近くにあるひっそりとした山の麓だった。墓石の代わりに管理番号の付いたプレートを地表に挿し、手を合わせた。土葬された遺体の数に震災の被害の大きさを改めて気づかされた。
胸中、妻や知人のことなどさまざまな思いが錯綜したが、「いつまでも人の善意に頼ってばかりはいられない、自立した生活をするべきだ」と、思いを新たにし、高橋氏は仮設住宅への入居申請をした。
【新田 祐介】
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