<援助資金投入も莫大>
都江堰は成都の西側にある。人口は60万人あまり、面積は1,208km2で、地名の由来ともなった「都江堰」(もとは「灌県」だった)は、現在でも 5,300 km2におよぶ範囲の農地の灌漑に活用されており、古代の優れた土木技術を今に残す。紀元前256年頃、李冰氏とその子・李二郎をはじめ、多くの人々が共に建設した。それまで水不足に苦しんでいた成都平原は、この技術により水田や桑畑などが急速に広がって水運も便利になり、「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となったという。
古代水利施設の都江堰は、以後も改良や補修を加えられ、2300年後の現在もなお機能している。2000年12月、連合国世界遺産委員会は都江堰を世界文化遺産と認定し、峨眉山、楽山、九塞溝、黄龍などに次いで四川省で5番目の世界遺産となった。また07年5月8日、中国旅行局は正式に5A級の旅行風景区に指定した。しかし3年前、この都市は大地震で多くの家屋が倒れ、古い建築も損害を受けて少なくとも3,069人が死亡、4,388人が負傷した。
震災以後の3年間に、五湖四海の人材資源、技術資源と智力資源が被災地に集まり、全国各地の災害防治と被災地での建設経験がある人材が現地で復興活動をした。3年間の建設で、都江堰は損害を受けた家屋、寺院などを建て直し、新しい住宅がたくさん建てられた。これにより元通りとなったようだ。
新しく建てられた住宅は3種類に分かれている。分譲住宅は1m2当たり5,000元(約6万5,000円)で、賃貸アパートは1m2あたり0.65元(約8.45円)、家を失くした人に対して1人当たり35m2を無料で提供し、超えた場合は1m2当たり2,000元で買ってもらう。現在の都江堰は新築がズラリと並んで道路も綺麗になっており、観光を主とする産業は回復し、生活も安定している。
都江堰は震災後3年間の復興作業が成功した1つの事例であり、この場所を通じて被災地の回復についていろいろな想像ができる。
<突撃突貫工事の威力>
08年5月12日14時28分、四川省の汶川、北川に震度8の地震が突然起こり、山川が移動し、多くの人々が満目創痍、生死離別した。これは新中国が成立して以来、破壊性がもっとも強く影響範囲が最大で、甚大な被害と損失を招いた地震だった。
中国民政部の報告によれば、同年9月18日現在、死者は約6万9,000人、負傷者は約37万4,000人、行方不明者は約1万8,000人に上った。生存被災者の合計は4,616万人、そのうち避難者は1,515万人にも達した。人的被害だけではなく経済的損失も莫大で、四川省副知事は6月28日現在で地震による四川省の直接的経済損失が1兆元(約14兆円)を超えたと発表した。衛生、通信・交通、地形・生態、文化財などあらゆる領域で深刻な被害となった。
同年5月18日、中国国務院は同19日(四川大地震から7日目)から21日までの3日間を全国哀悼日にすると発表した。哀悼期間中は全国で半旗が掲げられ、すべての公共的エンターテインメントは中止された。東日本大震災のときと同じように、当時中国でも"自粛ムード"がたしかに存在した。
同月22日、中国民政部は緊急通知で、北京など21カ所の省・市が1対1で責任を持って、四川省の被害が大きな地区を支援することを決定した。各地が1対1で四川省汶川県ほか被災地区の被災者に対し、臨時住宅を提供して基本的生活の問題を解決し、被災地区の復興に尽力した。
21カ省・市が1対1支援をした状況は【表】の通り。政府は各省を1対1で各地区級に任務分担させ、そうして各地区の復興を支援し、建設支援の指揮センターを設けて建設協力を指導する。ほかに政府は財政資金を拡大して投入し、政策援助を拡大し、財政投入、税金優遇、金融保証、用地保障、人員安置、就職援助、社会保険、倒れた家屋の再建など一貫した政策措置が制定された。これで災害後、再建の仕事を精力的に推進した。
3年間にわたる再建の成績は上記の政策により、とくに1対1の支援体制は有効的におのおのの復興能力を発揮させ、再建に最高の成果をもたらした。この旅を通じ、筆者は以下のことを確信した。人的自主性、制度の健全性、発展の協調性、精神的創造性をうまく活かせば、また政府と市場の2種類の手段で資源を配置することをうまく活かせば、震災復興とその後の社会発展を最大限推進できる、と。
【データ・マックス上海特派員 周 以平 2011年7月17日記】
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