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トリアス久山物語『夢の始終』(24)~中内ダイエーの福岡進出
経済小説
2011年9月 7日 07:00

<中内ダイエーの福岡進出>

 広大な敷地に、幅広な県道によるアクセス。福岡平野の稠密(ちゅうみつ)な人口をまるごと商圏にできる久山町のバリューセンター構想は、流通・国内最大手ダイエーの中内も入っていた。ダイエーは、当時我が国の流通業の売上トップ企業であった。

 ヨーカ堂、ジャスコ、西友といった大手小売業のなかで、ダイエーはもっとも早く九州エリアに注力した。
 早くも1965年(昭和40年)には、新天町商店街に近いところに福岡店をオープンしている。その後、80年代に入り地元福岡の呉服店を起源とする地域スーパーのユニードを子会社とし、もともとダイエーが出店した店舗をもユニードに移管することによって九州での流通業ナンバー1の座を占めることとなった。

ダイエーは、当時我が国の... そのようななかで、88年、パ・リーグのお荷物球団と言われていた南海ホークスの売却話が浮上、ワンマン経営の強みで即断即決し、89年シーズンから、平和台球場を本拠地とする福岡ダイエーホークスとして、プレイを開始した。
 これと同時にダイエーは、福岡市が89年に開催したアジア太平洋博覧会(よかトピア)の跡地12万坪の払下げを受け、ツインドームシティの構想を発表した。
 スポーツドームとアミューズメントドームのふたつのドームを設け、その真んなかに超高層のリゾートホテルを建てる、というのがその基本構想であった。その後、プランは変わったが、93年には福岡ドーム(今のヤフードーム)が開業、95年にはシーホークホテルも開業することになる。

 話は前後するが、89年にホークスが福岡に移転した頃は、まだダイエーは、福岡ではよそ者の扱いだった。
 本社の中内が訪ねてくれば、さすがに財界トップが表敬訪問を受け入れてくれるが、ドームの開発会社のトップに据えた息子の正(中内は、長男の潤に本業の流通を、次男の正には関連事業であるサービス分野をそれぞれ譲ろうと考えていた)が財界のキーマン(電力会社の常務や銀行の専務などのクラス)に会いにいこうとしても、秘書室レベルでアポイントを断られてしまう。

 平和台球場のホークス主催試合は、公表数値でも観客数千人ということだったが、実際の入場者数を数えてみると外野席を中心にわずかに数百人という日もあった。唯一対西武戦だけは満員の3万4,000人だったが、これも、平和台球場のスタンド席の3分の2が西武ファンのスカイブルーに染められている有様だった。
 平和台からさらに2キロほど西には西新という賑やかな商店街があり、そこはドーム球場予定地のお膝元だったが、商店主たちは、「中内ダイエーは、ドームには小売店は作らんといいよるが、きっとつくりようよ」と、眉をひそめた。

(つづく)

【石川 健一】

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<プロフィール>
石川 健一 (いしかわ けんいち)

東京出身、1967年生まれ。有名私大経済学卒。大卒後、大手スーパーに入社し、福岡の関連法人にてレジャー関連企業の立ち上げに携わる。その後、上場不動産会社に転職し、経営企画室長から管理担当常務まで務めるがリーマンショックの余波を受け民事再生に直面。倒産処理を終えた今は、前オーナー経営者が新たに設立した不動産会社で再チャレンジに取り組みつつ、原稿執筆活動を行なう。職業上の得意分野は経営計画、組織マネジメント、広報・IR、事業立ち上げ。執筆面での関心分野は、企業再生、組織マネジメント、流通・サービス業、航空・鉄道、近代戦史。


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