ファーストヴィレッジ(株) 代表取締役社長 市村 洋文 氏
野村証券で月間手数料収入6億円を達成するなどの伝説をつくった後、KOBE証券を株式公開に導き、2007年に独立した市村洋文氏。ファーストヴィレッジ(株)が運営する「経営者倶楽部」には、名だたる大手企業の経営者が名を連ねる。経営者だけで350人いるこの会は、ベンチャー企業と上場企業を結びつける役割を果たし、ビジネスマッチングで数多くの成功事例を持つ。昨年9月には、福岡にも同倶楽部を立ち上げた。中小企業の経営コンサルを手がける同氏に、震災後の中小企業のあり方について聞いた。
<ピンチをチャンスに>
―東日本大震災以降、日本の再生復興がテーマになっています。エネルギー問題を含め、日本の構造的な問題が変化していくなか、中小企業の取るべき方針、生き残り策についてどのようにお考えでしょうか。
市村 3.11後の日本の状況は、ある意味、戦後最大のピンチだと捉えています。ただ、日本はこのような大きなピンチをチャンスに変え、類まれな発展を遂げてきました。
日本がピンチをチャンスにしてきた過去の事例として、大きなものは2つあります。1つ目は、戦後の復興劇です。1946年の歌会始で、昭和天皇は「降り積もる 深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」とお詠みになられました。皇居の前には100本以上の松があり、雪が降っていました。降り積もる雪に耐える松のように、人もそうあるべきではないかと。それは"日本人の不屈の精神で奇跡的な復興を遂げよう"との願いが込められた歌でした。
そして日本は、奇跡的な復興を成し遂げました。また日本は戦後、「2度と戦争を繰り返さない平和な国」「国民が健康で長生きできる国」を大きな目標にしていたと思いますが、この目標も達成しています。
つまり、ピンチだった敗戦を教訓とし、チャンスに変えて、「戦後の復興による経済大国」「戦争のない平和な国」「健康な長寿国」になることができたのです。
2つ目は、73年のオイルショックです。同年に第4次中東戦争が勃発しました。あのとき、1バレル3ドル弱だった石油の価格は、最終的に1バレル11ドルにまで暴騰しました。超インフレによる狂乱ぶりを、私のような50代はみんな記憶していると思います。日本人がきれい好きだったということもあり、トイレットペーパーや洗剤が買い占められました。
当時、日本は海外からの燃料依存率が90%でした。またエネルギーの備蓄、効率的な活用、代替エネルギーの開発といったことも、当時は考えられていなかった。だから日本はパニックに陥ったのです。
しかし現在、石油の依存率は40%となり、日本は環境先進国になっています。その理由は、オイルショックのピンチから「エネルギーは備蓄する、エネルギーは効率的に使う、代替エネルギーを開発する」といったことに向かって国民が動いたからです。08年には、石油の価格が1バレルあたり100ドルを突破しましたが、国民はパニックにならなかった。これは、省エネ技術の普及や環境負荷低減など、日本がピンチをチャンスに変えて改善していった結果です。
【文・構成:山本 剛資】
<プロフィール>
市村 洋文(いちむら ひろふみ)
1959年、北海道生まれ。立教大学社会学部に入学。在学中に、学生旅行ツアーを企画。年間1,000台のバススキーツアーを企画し、4年間で60億円の売上を上げる。学生起業家の走りである。大学卒業後、野村證券㈱入社。新宿野村ビル支店時代に引き継いだ預かり資産を20億から2,000億に増やすなど手腕を発揮。個人で月間投信販売額500億円、月間手数料収入6億円の記録を打ち立てた。その後、最年少で大森支店長に抜擢される。それから野村證券における本社営業企画部など、超エリートコースを歩む。KOBE証券(株)に専務取締役としてスカウトされ、その後社長として預かり資産1兆4,400億円を集め、KOBE証券を1人当たりの預かり資産で野村證券を抜くまでに成長させた。また、まったくの独立証券でありながら、証券会社リーグテーブルで堂々の第12位(03年度)につけ、06年3月に株式公開を果たした。07年4月よりファーストヴィレッジ(株)で代表取締役社長として、M&Aを中心とした経営コンサルを行なっている。
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