<日本人のメンタリティ>
1970年頃、ヘッドハンティングという形で入ってきた人材紹介業も、およそ10年間は日本の風土に根付かず、細々とした営業だった。当時の人間に聞くと、ビジネスの基本が、現在の弁護士同様に時間制による手数料ビジネスだったことさえあった。
ところが、その停滞した環境を打破する事件が起こった。それは、日本経済のめざましい発展を見て、コカ・コーラやエイボン、デュポンなど多くの巨大外資が日本市場に参入してきたことだ。
彼らは、すでに海外各地で事業を展開して成功させていた。彼らの進出に合わせるように、欧米のヘッドハンティング会社も進出してきた。ところが、日本人のメンタリティは彼ら欧米人と大きく違っていた。欧米のヘッドハンティング会社の手に負えない部分も出てきた。そこで、日本発のヘッドハンティング会社も活躍の場を与えられたのである。欧米のヘッドハンティング会社が、日本市場を開拓してくれたことも助けになった。
<技術大国日本を支える!>
その後、1980年代になっても、欧米外資の日本支社長や副社長ら幹部を斡旋しながら、日本発のヘッドハンティング会社は細々と営業を続けていた。現在1万6,981社といわれている人材紹介会社も、当時は100社にも届いていなかった。少し前まで、わが世の春を謳歌したR社やI社の人材紹介部門はその頃はまだ影も形もなかった。
この環境を一変させる事件が再び起こった。日本が高度経済成長をつづけるなかで、世界の工場になっていったからだ。そこに膨大な数の技術者および技術者をサポートする部隊、管理部門などが必要になっていった。大学も乱立し、卒業生も増えていったが追いつかなかった。
この時点における人材紹介ビジネスは健全といえる。たとえば、鉄鋼会社が新しい半導体の事業部を作ろうとする。新しい事業部なので、自分のところにその専門人材はいない。そこで半導体事業に力を入れない会社から強化したい会社へと半導体技術者の企業をまたいだ横の移動が行なわれた。その流動化の橋渡しをしたのが人材紹介会社であり、国益を損ねない健全な対応といえた。この専門人材・専門チームの流動化が、日本の技術立国を支えたといっても過言ではない。
この環境は、10年を超えてかなり長いあいだ続く。ご存じのように、日本が世界の工場から退場し、IT産業に軸足を移していくまでの期間である。
【富士山 太郎】
<プロフィール>
富士山 太郎 (ふじやま たろう)
人材紹介、ヘッドハンティングのプロ。4,000名を超えるビジネスパーソンの面談経験を持つ。紹介する側(企業)と紹介される側(人材)双方の事情に詳しく、各業界に幅広い人脈を持つ。
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