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「北九州銀行」を誕生させた山口FGの歴史(24) 
発信!北九州
2011年11月30日 07:50

<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(24)~鈴木商店の破綻(14)>

 百十銀行の第3位の大口貸出先鈴木商店が倒産した時、第1位は先述した南洋興發、第2位が林兼商店であり、現在のマルハニチロホールディングスの源流であることから触れてみることにする。

・第2位 林兼商店
 1880年(明治37年)、播磨明石(現在の兵庫県明石市)出身の中部幾次郎が、家業の鮮魚仲買運搬業を受け継ぎ、1904年(明治37年)に下関市に拠点を移している。朝鮮半島沖や東シナ海の漁場を積極的に開拓し、日本初の発動機船により鮮魚を運搬。その後漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、1924年(大正13年)に林兼商店を設立。一大企業グループを作り上げ、水産都市下関を代表する企業に成長した。

1936年(昭和11年)に大洋捕鯨株式会社を設立し南氷洋捕鯨を開始、戦時下の水産統制令により1943年(昭和18年)には内地水産部門と大洋捕鯨株式会社等を合併し西大洋漁業統制株式会社に改称。戦局悪化と共に漁業用船舶を徴用され大打撃を受けている。

 1945年(昭和20年)12月、水産統制令の廃止に伴い、西大洋漁業統制(株)から西大洋漁業(株)に改称直後、再度大洋漁業株式会社と改称。
翌年12月に南氷洋捕鯨に第一日新丸により捕鯨を再開。鯨肉は食糧として、また鯨油は油脂工業製品として大いに利用され、欠乏した戦後の日本の資源生産に大きな貢献を果たしている。

1950年代から60年代初めにかけて、各国が競う捕鯨オリンピックの名のもとで、年間2万頭を越す鯨が捕獲されていたと言われている。そのため国際捕鯨委員会(IWC)は、鯨の減少を受けて、商業目的の捕鯨の一時禁止を決議。そのため母船式捕鯨会社三社の大洋漁業、日水、極洋は共同捕鯨することになる。

日本は禁止を受け入れる一方、1987年から南極海、1994年から北西太平洋で、国際条約で認められている調査捕鯨を続けることになる。現在日本は年間で、南極海1,035頭、北西太平洋380頭の上限を定めているが、最近ではシー・シェパードの捕鯨反対による洋上妨害を受けて、捕獲頭数は目標を大幅に下回っている。

三原脩監督 捕鯨最盛期の1949年(昭和24年)11月、プロ野球球団「まるは大洋球団」を結成し、セントラル・リーグに加盟。翌年球団名を「大洋ホエールズ」に改称。1960年(昭和35年)、セ・リーグ初優勝を決めた大洋ホエールズ(三原脩監督)は、パリーグ覇者の大毎オリオンズ(西本幸雄監督)と対戦し、4勝0敗で日本シリーズ制覇を果たしている。

その後大洋漁業からマルハを経て、ニチロと合併しマルハニチロホールディングスとして、水産事業、食品事業、倉庫物流事業を行う日本最大の水産事業会社となっている。

 余談ではあるが、筆者も下関に凱旋した大洋ホエールズの三原監督以下選手の祝賀行事に参加し、挨拶したことが今も懐かしい思い出となっている。

 その対戦相手の西本幸雄監督は、永田雅一オーナーと対立して1年で監督の座を去る。その後阪急、近鉄(ともに現オリックス)などの監督を務め8度のリーグ優勝果たした。しかし日本シリーズの優勝を一度も手にすることがなかったため、「悲運の名将」と呼ばれた西本氏は今月25日午後8時40分、心不全のため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。91歳。和歌山県出身。
ご冥福をお祈りしたい。

(つづく)

【北山 譲】

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