<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(25)~鈴木商店の破綻(15)>
帝國麥酒と百十銀行~(1)
盛況時の(株)鈴木商店取引状況は不明であるが、その破綻〈1927年4月5日〉後の昭和2年9月末の貸出額は、手形貸付で36万2,999円、割引手形で29万5,873円、合計65万8,872円であった。
と山口銀行史に記載されている。以下、手形発行元の帝國麥酒(現サッポロビール)と百十銀行との関係を抜粋して見ることにする。
帝國麥酒の株主総会で「手形発行九百二十萬圓」と報道(昭和2年7月6日付の門司新報)されたことなどから百十銀行に取りつけ騒ぎが飛び火することになる。
百十銀行は帝國麥酒(株)との取引関係から、またも危機を迎えることになった。事の起こりは同じく昭和2年(1927)7月下旬で、恐慌発生後日なお浅く人心未だ不安定なおりから、対応を一つ間違うと大事に至る瀬戸際であった。このため急処万全の対策がとられ、4営業日、90万円前後の預金引き出しで常態に復し事なきを得た。この間の経緯を明らかにする百十銀行と三菱銀行との往復書簡などを紹介しておきたい。~紙面の関係上以下省略~
要するに事態を憂慮した三菱銀行と百十銀行とのやり取りが往復書簡に記述されている。「三菱銀行の方でも相当心配したものと思われるこの事態は、危機を乗り越えたが、この回収に長期間苦労している」 と結んでいる。
(つづく)
【北山 譲】
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