(株)マルキョウの経営が転機を迎えようとしている。発行済み株式の27%強を保有していた創業者の斉田弥太郎会長(85)の死去で、株の分散化は避けられない。一般株主が増えれば個人商店体質から脱皮し、企業価値増大に向けた経営を迫られることになる。成長戦略を欠き、業績の伸び悩みが続くようだと、流通外資や大手スーパーによる敵対的買収の標的になる恐れもある。
<SM草わけの1人>
8月下旬、ホテル日航福岡で開かれた故・斉田会長をしのぶ会。取引先など全国から関係者約1,200人が参列、明治屋商事との合併を控えた三菱食品の中野勘治代表取締役会長、広田正特別顧問(前菱食会長)も東京から駆けつけた。地方の一食品スーパー(SM)とはいえ、マルキョウの存在感を改めて見せ付けた。
故・斉田氏は、存命していた九州で最後のSM創業者だった。1925(大正14)年8月1日、福岡県生まれで、旧制筑紫中学を卒業後、鉄工会社など会社勤めを経て戦後食料品店を創業。64年、マルキョウの前身である(株)丸共ストアーを設立し、社長に就任。以来、同社を九州でも有数のSMに育て上げた。ほぼ前後してスーパーに進出した岩田屋子会社のサニーと、福岡都市圏の市場を2分。百貨店子会社らしくスマートさが特徴のサニーに対し、在庫を通路にまでうず高く積み上げ、売場は乱雑で整頓されていないが、低価格販売で人気を集めた。
マルキョウを、九州を代表するスーパーに押し上げたのは、いち早く多店舗展開に乗り出したことに加え、斉田氏の斬新な経営戦略によるものだった。80年代後半から90年代初めにかけ、拡大した店舗に低コストで商品を供給するため、いち早く物流体制を整備していったのは、その代表例。福岡都市圏の周辺に一般食品、青果、精肉、鮮魚、惣菜と商品別に加工機能を併設した大型物流センターを相次いで建設。とりわけ生鮮4品の物流施設は、それまで市場で仲卸に依存していたカット、パック詰めや値札付けなどの加工を自社で集中的に行なうことでコストダウンと時間短縮を実現したもので、当時としては革新的な試みだった。
97年、代表権のない会長に就任し経営の第一線から退いた後も、経営に眼を光らせていた。晩年、トライアルカンパニーの店舗を視察したとき、「これがスーパーの売場や」とかたわらの社員を振り返って言ったという。きれいになりすぎた自社の売場を嘆いたのか、あるいは創業当時の頃をトライアルの売場に重ね合わせて見たのかもしれない。
商売には厳しかった。社員が取引先と昼食をする場合、自分の分は自分のカネで払うよう厳命していたという。一方で、取引先には大量発注をする代わり、徹底してコストを下げるよう要求する。仕入コストを抑え、ほかのスーパーのどこよりも安く販売する―マルキョウの今日の経営手法は、すべて故・会長の時代につくり上げられたものだ。
<個人商店体質を出ず>
上場企業でありながら、経営体質は個人商店の域を出なかった。内向き志向の体質は、その後就任した克行氏(現会長)、敏男両社長に受け継がれ、今日に至っている。
09年9月、当時取引のあった明治屋商事(現三菱食品)がマルキョウ子会社の(株)青木商事に多額のリベートを落とし、大部分が未払いになりトラブルになっていたことが表面化。年約160億円あった取引が打ち切られた。
実態のないペーパーカンパニーの青木商事に取引を経由させること自体、通常の上場企業では考えらず、しかも多額のリベートを吸い上げていたとなると、不透明さは拭えない。斉田家の財布代わりの会社と見られても仕方なく、期せずして個人商店的体質をあぶり出すことになった。会社側は伝票を通すだけのトンネル会社がなぜ必要なのか、説明していない。有価証券報告書には青木商事を2次問屋とするだけで、業務内容についての具体的な記述はない。
ちなみに、青木商事の売上高は約120億円で、前期の経常利益は2億6,200万円の黒字、当期損益は100万円の赤字だった。伝票を通すだけで、売上高に対し2%の経常利益率を上げている。当期損益を赤字にした理由は不明だ。
資本構成も個人商店体質を残す。筆頭株主の故・斉田会長と斉田家の資産管理会社である池田興産㈲が合計で3分の1を超える39.88%を保有、株式の流動性が低い。会社側が、積極的に一般株主を増やすことに努めてきた形跡はうかがえない。
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